知るものとして在る

知るものと知られる対象、

神は全てを知っていると言うが、

全ての変化を誰が知るのだろうか?

もちろん、わたし、自己である。

にも拘わらず、多くは身体、思考、

知られる対象を自己であると結論付けている。

知られる対象である世界で、誰が苦しみ、誰が悲しむのだろうか?

苦しみも悲しみも知る事の可能な対象である。

それが自己だと結論付けるなら、苦しみも悲しみも

あなたのものだ。

しかし、事実は苦しみも悲しみもわたしにより知られている。

ゆえにわたしは苦しみからも悲しみからも離れている。

誰が何と言おうと、誰もが既に知るものとしての存在である事に

間違いはない。

常在である真理は常にここにある。

誰もが知るものとしてここに在る。

しかし、対象である身体がわたしであると言う錯覚があるなら、

それは取り除かれなければならない。

偽りにしがみつく事は偽りしか生まない。

偽りである錯覚が障害だ。

醜いアヒルの子は既に白鳥である。

わたしはアヒルの子であると言う錯覚だけが障害なのだ。

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