神とは?

人々は何をもって神としているのでしょうか?

その存在の有無を議論すること自体、
神への無知を示唆している。

神とは、存在する、しないと議論するものでは無く
それは、ここに在る何かを例えた方便である。

要は何を例えているかと言う事、
その事を殆どのものが知らないのだ。

世界中の一般人はおろか、仏に使えるとされるもの
キリスト教の信者、科学者、哲学者、ありと
あらゆる分野で、神の誤った解釈がなされている。

これだけ知識のあふれた世界でこんなに明らかなものを
見落としている。

神は存在します。

神仏が何か分からずに、想像上のものについて
話すから、その存在の有無と言う議論になるわけです。

では神を何として、それは何処にいるでしょうか?

神は全てを見ている。

全てを見ているものとは何でしょうか?

この「見ている」事「見る」事は、
主観でなければなりません。
「見られている」と言う客観的なものは全て推測でしかありません。

例えば、あなたが偽りの理由をもって上司に仕事を休むと
言ったとします。

ここで上司は騙された人として、
その時あなたは騙した人となります。

騙された人と騙した人、そしてその嘘は
知られています。

知るものからすれば、騙されるもの騙すもの
そしてその嘘は、
知る事の可能な対象であり、それらを知るものである主体であると
は言えません。

知るものからすれば、知る事の可能なものは全て対象であると位置づけられます。

さて、その嘘を知るものとは何でしょうか?

その嘘を知るものとはあなた以外にあり得ません。

あなたは、勿論騙された人ではありません。
そして騙した人でさえありません。
では、騙した人とは何でしょうか?

それは、騙されたものと同様に対象であり、あなたではないと言えます。

目が目を見る事が出来ない様に、知るものを知る事は出来ません。
主体とは自らを対象化出来ないと言う質を持つからです。
知る事が可能なものは全てあなたではない事を証明します。

私の車、私の家と言います。
言い方を変えれば、私は車でもなければ家でもないと
表現できます。
ならば私の体、私の心はどうでしょうか?
言葉の上では、
私は体でもなければ、心でもないと言う事に
なります。

実際にはどうでしょうか?

あなたの体や心はあなたであると言えるでしょうか?

いや、それを自己だと決めつける理由は不十分なもので
定かであるとは言えません。

身体や心とは、繋がりにおいてのみ機能するもので、
誰であるとは言えません。

繋がりから機能するものであるからこそ、
人は繋がりの束縛を受けます。
やりたくない事、思いたくない事をやり思わなければ
ならない時があると言う事は、繋がりからなる
束縛だと言えます。

私の体、私の心、私の何々を全て捨て去り、
残る純粋な私とは何だろうか?

それはあなたがあなただと思いなす全てを超えた、
全ての根底に在る普遍なるものを指しています。

そしてそれが真のあなたであると言えます。

もしあなたが知られる対象である。
騙す人をあなただと思いなし、
そこに罪悪感があるとするなら、
騙したことによる罪悪感と言う罰をもろに受けるでしょう。

もしあなたが、知るものであるなら、
罪悪感もまた知られる対象となり、その罰から逃れます。

対象である体、個人を自己だと思いなす罪は、
個人が受ける全ての罰(束縛)を背負う事になります。

もし神である主体を知り、それが自己だと悟るなら
全ての束縛から解放されるでしょう。

理解だけでは不十分だ。
真の自己を悟り、解放が成されて、
全てが成仏するのだ。
その為に神仏の教えがあるのです。

その中に宇宙全体のあり様、全ての物質的
精神的あり様が含まれているのですが、

それらは単に、わたしとは何か?
を説明する目的で創造されたものに過ぎず、
その目的であるわたしとは究極的に
何であるかを知るなら、
それらは必要のないものとして捨て去られるのです。

真実とは変化のない常在を意味します。
あなたと共に常在するもの、
それはあなた以外には無いのです。
神が真実なるものだとするなら、
それはあなた以外にはないのです。

真のあなた、わたしを見出しなさい。

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