全ての原因、根源とは?

宇宙の原因の原因と果てしなく辿っていくと行きつく先は無である。

だが無とは何だろうか?
多くは、何も無い事だと言うだろう。

その時、殆どものが何も無いと言う
状態を指している事だろう。

そもそも無が何もないなら、原因の不在であり、そこからガスであろうがチリであろうが 爆発であろうが、生まれるはずはない。

何も無い状態は初めから素粒子の存在がある言う物理学者がいるが、それは無ではない。

何かの存在があるなら、更なる原因が生まれる。 何処まで辿っても根源が見つからないと言う問題に直面する。

科学は、難しい言葉を並べ立てるが、結局のところ結論を回避している 浅はかなものばかりである。

では、本当の意味で何も無いと言う状態とはどの様な状態だろうか?
暗黒だと言うなら、そこには暗黒が有る。

どれだけ無をイメージしても、何も無いと言う事は、
イメージできない、精々何も無いと言う空間が
イメージされるだけである。

だがそこに空間の存在があるなら、
何も無いと言う事ではない。

無を何も無いと言う状態だと言うなら、
それは何も無いと言う状態が有ると言う事になる。

何も無いと言う事で、何も無いと言う事でなくなる
と言うパラドックスに陥るのだ。

空間さえない無をイメージできるだろうか?
それは不可能である。

無が状態で無いと言う事は明らかだ。

何故なら状態とは、常に有を映し出すもので
あるからだ。
無は状態ではない。

それは有るとも無いとも言えない。
全ての状態を超えたもの、それが無である。

全ては無から始まった。
ゆえに今も無である。
そしてこれからも無である。

我々が見る全てが無の表現である。

状態とは、それは常に知覚の対象として
現れています。

対して知覚者、主体は、
目が目を見る事が出来ない様に、
自らを対象化出来ないと言う質をもつ

対象である全ての変化(状態)を知るもの
主体とは何だろうか?

誰が全ての変化を知るのだろうか?

わたし、自己である。
あなたは、世界の変化に気付いています。
勿論、体の変化、心の変化、感覚、意識の
変化さえ知る事が可能である。

状態は絶えず変化し、
それは、知る事の可能な対象であり、
知るものであるわたしではない。

知るものを知る事は出来ない。
知る事の可能なものは全て対象であり、
主である自己ではあり得ないのだ。

自己は状態ではないのだ。
無と同じように自己は状態を超えている。

状態を超えるとは、状態の中にではなく、
状態の外に在り、その影響を受けないと言う事だ。

無は自己と同じものである。

あらゆる状態を知覚している事で、
あらゆる状態から離れて在る事を示唆している。

そして、あらゆる状態を知覚する事で、
その存在性は明らかとなる。

しかし、それそのものの知覚は不可能と言う事で、
わたしは存在しないとも言える。

在るとも無いとも言えないもの
それがわたしである。

真理は、無である主体のみが在る。

だが、それのみではその表現が出来ない。
表現するには知覚の対象、状態が必要である。

陰と陽、
光が有る事で影があり、
影が有る事で光の存在を証明している。

全てのものは対立する2つの極がある事で
表現されるのだ。

無は、存在であり、無は在るのだ。

陰と陽は2つで1つのもの
それは現象としての現れを可能にするものである。

ここで言う無、自己、主体は、
全て同じものを指している。

では、無であり主であるものの対極、
有であり対象であるものは、
どこに生み出されるだろうか?

それを可能にするには1つを置いて他にはない。

夢と言う現象である。

主は、自らを対象化出来ない為に、存在であるにも
拘わらずそれを知覚する事はない。

そこに知覚の対象が無い限り、
それは常に眠りの中にある。

知覚の対象が無いと言う事は深い眠りを意味する。
深い眠りの中では対象である世界は存在しない。

陰と陽、全ては2つで1つ、
眠りがあるなら、目覚めがある。

目覚めは存在の眠りの中で起こる。
意識の開花である。

眠りの中において意識が目覚め、
世界と言う夢を創造するのである。

その中では全てが2つで1つのもので構成される
二元性の世界だ。

無は、有るとも無いとも言えない質をもつ、
もし1つの限定された真実があるなら、
それは有を現わし無が無で無くなるのだ。

無は限定された真実が無い事を意味している。
真実とは変化なく永遠である事を意味するものだ。

眠りが真実なら、何も無いと言う事が真実となり、
意識の目覚めはなかっただろう。

逆に意識の目覚めが真実なら、世界の消滅、
即ち、意識の消滅は無いだろう。

眠りと目覚めは交互に現れる事で、
どちらも真実でない無を表現しているのだ。

陰と陽はその現れである。

夢の世界は見ている時は真実だと言えるが、
消え去れば、無かった事に気付く、

有るとも無いとも言えないものが夢である。

意識の目覚めは眠りの中で起こる事であり、
この世界は目覚めの状態だとも言えるし、
眠りの状態だとも言える。

意識の消滅は、眠り、即ち夢見からの解放を意味し、
それは目覚めであるとも言え、再び知覚不可能な
自己としての眠りの状態だとも言える。

全てにおいて、どりらの表現も可能な
あやふやなものが無である。

夢見の世界を知覚するには、
見る事、聞く事、触る事、嗅ぐ事、味わう事、
即ち身体が必要である。

世界と体、全体と部分、これも2つで1つだ。
だがそれだけでは世界は認識されない。

見える世界があるなら、見えない世界、
そして見えない部分、
即ち精神世界だ。

物質的宇宙の反映は意識として、
物質的部分の反映は心、マインドとして現れる。
物質と精神は互いに影響を与え合う2つで1つのものだ。

そしてもう1つ、知る事が必要である。
見る事があっても、それを知覚する働きがなければ、
見ていると言う事は知られないままである。

知る事は、全ての2つで1つのもの、対象であり変化であり、
状態である世界、二元性を知覚する。

だから二元性を超える非二元のもの、
意識の中にありながら意識を超えているもの、
それは、完全なる無の反映として意識の中に現れた。

2つで1つのものの間には摩擦と言う
エネルギーを生む、
N極とS極の重なりが磁力を生むようなものだ。

不動である無と変動である世界の間に存在と言う
感覚が生まれる。

三位一体、
存在、人間とは二本の柱とその間のものと書く、
それは、身体のみを指すものでは無い。

全ては鎖のように繋がり現れる。
どれが欠けてもわたしはわたしを知覚する事は
出来ない。

ゆえに全てがわたしだ。

木は根、幹、枝、葉、実、全てが木である。
何処から根で、どこから幹で、枝なのか隔てる
境界線はない。

起こる事全てはわたしの体だ。

体は現れては消えていく、
意識の内容である物質的、精神的体は、
わたしそのものではない。

だから知覚されるもの全てがわたしではない。
わたしそのものは、
対象が消え去っても消える事はない。

全てはわたしだとも言えるが、
全てはわたしで無いとも言える。

それが無であるわたしである。

主体であり、無限、永遠、可能性である自己を
神と名付けた。
聖典などで神を主と表現しているのはこの為だ。

神は全てを知っていると言うだろう。
その真意は、わたしは全ての変化を知覚している
と言う意味だ。

神がわたしである。
無がわたしである。

しかし人々は、神を誤って対象として祭り上げて、
対象である個人的肉体を主体である自己だと思い込んだ。

人々は主体であり存在であるむについて無知であり、
変化し対象である非存在に存在性を与え、
それを現実と呼んでいる。

それも仕方がない。
何故なら無に真実はない。
主体は対象として感じられ、対象は主体として
感じられるものだ。

ゆえに主体は対象だとも主体だとも言え
対象は主体だとも対象だとも言えるからである。
それが無である。

もし主体と感じるものが主体として確立されたものであるなら、
それは1つの真実となり無は無で無くなるだろう。

存在するかに見えるものは存在が無く、
存在するかに見えないものが存在する。

無が在り、有が無い。

事実は(在)の中に無と有があり、
主体の中に主体と対象がある。

不動の中に不動と変動があり、
わたしの中に自と他がある。

不動であり、無である自己の内で、
変動であり意識である世界は出現と消滅を繰り返す。
陰と陽の関係性である。
全ては2で1つだ。

始まりは無と在、無とは1つの存在である。
次に存在と非存在、
存在があるなら非存在が有る。
無である存在の中に有である意識と世界、
精神と物質が現れる。

その中で全ての陰と陽が現れる。
物質と精神の世界は、意識とマインド、全体と個、
男女、右左、善悪、昼と夜、幸福と不幸、生と死、

意識内は二元性の世界だ。
対極の無に二元性はない。

知るものと知られる対象、
そしてそれを超えるもの
それが全てである。

原因と結果と言う二元性は意識の中でのみ
有効である。
人々は全ての原因を探ろうとするが、
それは何処まで行っても果てが無い。

果てが無いものに答えがあろうはずもない。
ゆえに答えは見つからない。
見つかったと思っても、
それは新たな見解に置き換えられる。

科学は見解を変えてきた。
それを進化と呼ぶ事は自由だが、変化する真実とは
何だろうか?

偽りである対象に真実を見出す事は出来ない。
内側を見なさい。

自己を発見しなさい。
そうすれば全てを発見するだろう。

そしてそれが、無であり、ゆえに現れる事も消え去る事もない全ての原因であり根源であるわたしである。

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