何をもって存在している事を知るだろうか?

わたしとは全ての根底に在るもの
そこに何かが有ると言うにはわたしがなければ
ならない。

わたしがなければわたしは存在するとさえ
言えからである。
ゆえにわたしとはわたしは在ると言う事さえ
超えている何かであり、
全てを可能にする可能性であり、
それは不可視なものである。

そこに結果として現れている出来事が
あることで、わたしはわたしをその可能性で
在る事を知る。

そこに変化する世界がある事で、
わたしは不動である事を知る。

そこに物事が有る事で、
わたしは無である事を知る。

人々は有る事の中で真実を探ろうとするが、
わたしはそこに真実が無い事を知る。
何故ならわたしが真実であるからだ。

人々は存在していると言う感覚が
ある事でそれがわたしだと思いなし、
わたしは存在すると思いなす。
わたしはそこに存在の感覚がある事で、
わたしはそれではない事を知り、
わたしは存在しない事を知る。

出現と消滅を繰り返す感覚と
同化する多くは消滅を恐れるのだ。

わたしは恐れない。
何故ならわたしは無であり、存在する事も
存在しない事もないからだ。

そこに生と死がある事で、
わたしは生も死も無い事を知る。

そこに全てが有る事で、
わたしは空っぽだと悟るのだ。

個が全体に働きかけて初めて、 全体は個に働きかけるのだ。

個は全体の為に働きかけ、
全体は個に働きかける。
2つは1つだ。

政治は人々の上に立ち、
人々の生活の土台となる。

しかし個々が個々の為の働き、
娯楽やスポーツ、ビジネス、
我こそはと
己の欲望の為、快楽の追求の為、
個人の利益の追求に没頭するなら、
全体も個の為に機能しなくなるだろう。
全体を動かすのもまた個の働きであるからだ。

個人主義が蔓延する間は、
政治は特定の団体や個人に対して機能し
全体としての働きをやめてしまうのだ。

個が全体に働きかけて初めて、
全体は個に働きかけるのだ。

全体への働きとは、全体の為に耕し、実を育て、
食物連鎖の中で与えられる恵に感謝する。
勿論、そのあり様は時と共に変化するが、
個が己の利益の追求ではなく全体の為に働く事、
そういう思いを持った個々が集まり全体として
機能し始めると、それらを可能にする為の
環境を整える事、全体が機能し始めるだろう。

全体の働きとは、不自由なものにも
均等に恵を与えられる事を助け、
人より持とうとする事を抑圧する事だ。

盗んではならない、欺いてはならない。
限られた資源である全体のものを、立場
(与えられた能力、環境)を利用して、
必要以上に抱かえる行為、
それを実行するために
正義を振りかざす事が、
欺き盗む事だ。

殆どのものが結果を出す出さないに
拘わらず欺き盗もうと企んでいる。
成功や失敗などと、、
それは私的な欲望以外の何ものでもない。
それを夢や目標と言う綺麗な言葉で
包み隠しているだけだ。

快楽を覚えてしまった個人にとって、
私的欲望失くして生きている意味がないと
主張するだろう。
だが、生きる目的とは生きる事であり、
それ以上も以下もない。

欲望を満たす為に、多くは生きる事に
別の目的を与えているが、結局のところ、
誰も満たされないどころか、多くが苦しんでいる。
欲望を満たす為の行為は更なる欲望を呼び、
何処まで行っても満たされないのだ。

個を犠牲にする行為が全体を観たし
その結果、個が満たされるのである。

個が全体の為に正しく機能すれば、
全体は個の為の働きをするようになり、
個は全体により生かされ、守られる。
その秩序、全体は個が創り上げるのだ。

日本においては、
武士道やその他様々な道と呼ばれる
古い教えがあった。
主君の為に自らを押し殺し捧げる事、
国の為に捧げ、国の為に散る。
日本人の根底には全体の為の
働き、精神が備わっていたのだ。

白人はそれを奪い、黒人は白人を恐れた。
それに立ち向かい敗れ、失われた精神。
これらは、欲望と恐れ、そのどちらでもない
精神がある事の現れである。
世界はまさしく、全てのあり様を
反映させている。

全体の為の働きを日本は破壊されたが、
それは基盤である自己知識が完全では
なかったからだ。

日本人は全体への働きかけが、
自然にできていた。
しかし白人により欲しいものは
奪い取る事を教えられ、
偏差値教育がはびこってしまった。
偏差値教育は個の欲望を増大させる。
それは無智から生まれたものである。

それにより個は全体への働きかけを
忘れてしまい、自己中心的な働きを
生んだのだ。

真の全体への働きかけとは、
全体の為に働きかける行為を
指すものではない。
行為そのものは知られる対象である。

世界、体、心、感覚、意識、
これらは知られ、変化する対象であり、
それを知るもの、不動である主体とは?
全ての知識の根底にある知識、
わたしとは何か?

自己への無知は、対象である体と
主体である自己との同一視を生み、
自己中心的考えを生む、全体から
独立した個を生み、全体の為の
働きをやめてしまうのだ。

自己への理解が完全であるとき、
全体への働きかけも完全となる。
それは移り変わる教育により
揺らぐ事はない。

何故なら自己知識は知識の頂点にあり、
教育を超えているからである。
それを知れば、全体への働きかけを
失う事はないだろう。

ここに書かれた歴史認識などは、
私的なもので真実では無い。
だがそれは問題ではない。
問題はあなたが何であるかと言う事だ。

考えや行為に捉われる事で、 考えや行為の奴隷となる。

対象への依存が、日々の生活、人生と言う
幻想を生む。

物資的対象はそれぞれの精神的対象の基盤を構築し、
精神的対象はそれぞれの物質的対象の基盤を構築する。
それぞれに様々なストーリーを与える。

世界は見る角度(経験、状況、その他)
により見え方は異なるがゆえに
相反する考えを持つものが必ずそれぞれの
ストーリの中に現れる。

自分の考えと相反する考えを持つものに
対してその考えは誤りだとして、
洗脳されていると言う言葉を使う時がある。

それは、自分から見て、良くないとされる
行為を生む考えに対して使われるようだ。

自分から見て、対岸に住む者へ発信されるが、
向こう岸から見れば、自分がその言葉の
標的となる。

双方に違いはない。

その意味で、
誰もがそれぞれの考えに洗脳されていると言える。

洗脳とは、脳を洗うと書く、
それは考えを洗い流すと言う意味だ。
人々が使う意味で言うなら、
食脳、侵脳と言う類の言葉を設けるべきだ。

多くは様々な考えに捉われ、
己の欲望を満たす為の行為を繰り返す。
己を満たすための行為は、
尊敬、慈しみ、楽しみ、喜びを生む反面、
嫉妬、憎しみ、苦しみ、悲しみを生む、

考えや行為に捉われる事で、
考えや行為の奴隷となる。

何故、自発的に現れては消える対象、
考えや行為に執着するのか?

何故なら対象である自分を主体である
自己だと決めつけているからである。
最も根底にあるその考えに食脳されている為に、
最も良くない自己中心的考えや行為を
生むと言える。
その考えを洗い流し、その意味での洗脳を
するべきである。

私は体ではないと言う考えは、私は体である
と言う考えと同等に良くないものを生む、
どちらも対象として現れたものであり、
洗い流した脳に新たな考えを重ねてはならない。
それらに捉われてはならない。

考えを洗い流すには、考えは偽物である
と理解するだけで十分だ。
本物を探す必要はない。
現れては消える考えに本物はないからである。
勿論ここに記されている事も偽りだ。

ありとあらゆる方向から、私はこの体である
と言う考えと向き合い、それは本当なのか?
考えに真実はあるのか?と、徹底的に調べなさい。

偽物は偽物だと知られた瞬間、手放されるのだ。
全ての考えが手放された時、本当の意味での
洗脳が完成された時
あなたは1つの境地へと入っていく、

全ての考えが放棄されなお残るもの、
存在を発見するだろう。

自己知識のない行為は偽りの ”私は在る”の為に機能する。

私は在ると言う感覚、

それは物質と意識を隔てるもので、
これが世界から独立した私と言う感覚を生む、

私は在ると言う感覚、
多くはこれを安定させようと、
色んな事を試みるが全て失敗に終わる。

私は在るは不動の様に現れては
いるが、それは偽物だ。

在ると言う感覚もまた知られる
対象であり、現われと消滅を繰り返す
断続的なものだ。

多くは、それが心地よく続いてほしいと願うが、
存続したいと言う欲望は非存在ゆえの
欲望である。
真の存在にその様な欲望はない。

真の存在、自己知識とは、
知覚可能な全てはわたしではない
と言う完全性の上に成り立つのだ。

存在は、今起こっている出来事や
行為の中にはないが、
それらが現れている時も、それらが終わった時
も存続し続けるのだ。

人々はこの自己知識なしで、行為や心の
あり様を正そうとするが、全ては失敗に終わる。

在ると言う感覚に深く潜っていきなさい。
在るに焦点を合わせなさいとは、
私と言う感覚、在ると言う感覚に向き合い、
それを徹底的に調べなさいと言う事、
在ると向き合い、それを見守る事で、
真の存在は明らかとなる。
その上で、全てはそれから離れてはいないと
悟るのだ。

自己知識のない行為は、欲望と恐れ、
執着と逃避を基盤として、それは
全て偽りの”私は在る”の為に機能する。
自己知識のない指導者の語る事は、
偽物の存在を豊かにさせようとする試みであり、
理想論でしかない。
それは偽物の存続の為のものだ。

偽物に完全性はない。
それは指導者自身がよく知っているだろう。
寛大にふるまい完全性を主張するが、
指導者もまた理想と現実の間で苦悩し、
己を欺き、他を欺いている。
個人が完全性を求める事は、
存在への愛ではあるが、誤った完全性は
慢心を生む。

完全とは個人の為のものではなく
全てを超え、全てを含む存在
を意味するものだ。

そしてそれが自己の本性だと悟る事で、
欲望と恐れは消え去り、
愛と慈悲が現れる。

行為の基盤は愛と慈悲が主導権を握るが、
それは個人としてのあり様に
世界のあり様に
完全性をもたらせるものではない。

これらは個人が完全性を得る為のもので
あってはならない。
それらは捨て去られなければならないからだ。

真の平和は全てを捧げる代償として
与えられるものである。

既に明らかなものは全てのものにおいて 明らかである。

意識を含む全ての精神的活動は脳から生まれ、感覚は脳に伝達され処理される。                     それを含む身体は私自身であり、私はこれらをコントロールする。

これはある意味正しく、広く一般的な
認識である。
一般的に言われている事を人々は
調べることなく無条件に受け入れる。

しかし現実は、それをコントロールする
特定のものは存在しない。
もし個人がそれをコントロールしているなら
嫌いなものを瞬時に好きになる事、
その逆もしかり、悩み事を瞬時に消し去り、
思いのない幸福な日々を送れる事でしょう。

しかしそれらは様々な要因により縛られ、
繋がりの元機能する。

物質と精神は2つで1つ、物質を紐解いていけば、
脳の構造を突き詰めていけば、緊張や不安、
マインドの変化と共に脳にも変化が現れるだろう。

しかしそれは脳の中に精神が宿ると言う事の
証明にはならない。
脳の変化がマインドを変化させるのか?
マインドの変化の現れが脳であるのか?
物質の中に精神が宿るのか?
精神の現れが物質なのか?
これを証明する事は出来ない。

どちらにしても、それら変化は
知覚の対象であり、
知覚の対象は主であるわたしではない。

いつの時も苦悩と言う
束縛をもたらせるのは、
私はこの体であると言う想念が
根底にある事を忘れてはならない。

明らかでない事への執着が、
既に明らかなものを覆い隠す。

そこに世界があり、人々は様々な定義をつけて、
これは正しい、これは間違いだと
やっているが、そこに明らかなものはなく、
世界は、それらとは関係なく、
そこにある。

同じように、
存在とは、体である、ないに関わらず
ここに在る。

既に明らかなものは全てのものにおいて
明らかである。
わたしは在るは明らかである。
わたしは体である。
またはわたしは体ではないは明らかではない。

ここで語られている事は、明らかでないもの
全てを放棄しなさいと言う事で、
新たな何かを獲得しなさいと言う事では
ない。

放棄するとは、
意識がそれに向かう事をやめる事である。

偽物は偽物だと気づかれた瞬間、自動的に
放棄され、意識の焦点はそれらから外れるのだ。

知覚の対象は全て明らかなものではない。
知覚不可能なものこそ明らかなのだ。
そこに明らかでないものがある事で、
ここに明らかなものがある事を示唆している。

多くは誰にとっても明らかなものを
知らず、明らかでないものを
明らかなものだと思いなしているのだ。

明らかでないもの全てを
放棄しなお残る存在、それは自己存在ではない。

在る事とは何なのか?
見出すのです。

夢や希望を持つ事、夢や希望を 与える事は、良くも悪くもある。

夢を持ち、夢を叶える事、
それを見て勇気付けられものがいる。

その反面、嫉妬や増悪、妬むものもいる。

夢を勝ち取り、栄光を掴むものがいる。
半面、挫折しどん底に落ちる者がいる。

全ては2つで1つ
宇宙はそうやってバランスをとるのだ。

限られた富を奪い合う、富を勝ち取る者が現れるなら、
富を失うものが現れる。

巨額の富の背後には、きつい労働に虐げられる者や貧困がある。

だがそこに善悪はない。

何故なら、全てにとって良いものも悪いものもないからである。

誰かにとって良いものがあるなら、
誰かにとって悪いものがあると言う事、

それは、その様に機能している。

一握りの栄光を掴みとったものだけが
称賛されるが、その背後にある多くの、人知れず苦しむ者、
人知れず死んでいったものに多くは無関心である。

その明暗は、努力や能力だけでは測れない。
それは、様々な要因からなる一時的な結果として現れる。
全ては繋がりから起こる事で、個人の功績も失敗もない。

高額納税者が社会に貢献していると見られる風潮があるが、
それにより、多くの納税できないくらいやせ細ったものを
生み出している事を、誰も知る余地もない。

貢献は、その反面、阻害でもある。

富める者が富める者としてある事の背後には
貧しいものの存在が不可欠なのだ。
富める者とは個人の力ではなく、
様々な依存の力が働いて生まれる事を知るべきだ。

様々な要因からなる単なる一時的な結果だけを見て、
個人の努力や能力の成果を主張する事は、
無智から生まれた幼稚で浅はかな考えである。

自己知識を得たものは全てを同等と観る。
特別な個人など存在しない。

自己知識とは自己存在への否定を通して知る知識である。
自己を特定の形態と見なす事で、
自己中心的な考えや行為を生むのである。

それにより競争を生み、様々な要因からなる格差が現れる。

特定の個を特別扱いして称賛すれば、個は調子に乗り、
どんどん肥え、相手にされなければ個は、力を
失い、どんどんやせ細っていく、
同等に観る事とは、全てを称賛し、あるいは
全てに無関心であり、また全てを憐れむ事である。

信じるものは救われる。

全てはくうであり、1つである。
それは何ものにも影響を与えず
影響を受ける事もない。

それが唯一の存在、わたしである。
全ては1つだが、1つのものに
分離を与えたのがマインドである。

根、幹、枝、葉、実
1つである木に分離を与えたのは知識であり、
マインドである。
木は木でさえない。

木は土から分離なく、土は世界から分離が無い。
世界は世界でさえない。

全ては1つで、わたしから切り離されたものは
何もない。
全てがわたしであり、
わたしはわたしでさえない。

主体と対象は、特定の形態を自己だとみなす
無智の状態へ向けられた教えであり、
事実は主体も対象もない。

陰と陽はマインドの領域にのみ存在する。

マインドとは雲のようなもので、
実態なく現れては消え去る。

マインドは分離を与え、分離した1つ1つに
定義を与える。
世界とはマインドそのものである。
ゆえに世界とはそれぞれの内に創造
されたそれぞれの印象に過ぎない。

時と共に変化し、現れては消える
マインドには確かなものはない。

マインドに現実性を与えれば、
マインドの奴隷となる。
マインドをあるがままに観て、
放っておくのだ。

やがてマインドは静かになるだろう。
その時、全ては1つだと気づくのだ。

ただ単に全ては1つだと言ってみたり、
思いなそうとしても、
1つでないと言う観念が残る限り、
分離はそこにある。
なによりそれが口先だけだと言う事
は知られている。

全てが1つである事の確信、
今ここに在るゼロを再認識する事、
それが真我(アートマン)実現と呼ばれるものだ。

帰依の道とは、全てが神であり、全てはそれと1つであると
完全に信じ、あの方を思い続ける事
我々に出来る事はそれだけだ。

更には我々が出来る事もまたあの方が決めて
くれていて、神と1つになる事に、我々は完全に無力である。

わたしが行為していると言う慢心が、
残っているなら、
神の元へ行く事は出来ないが、
それもまたあの方が残して下さっているのだ。

信じきり、完全に委ねる事で、
それは成される。

信じるものは救われるの真意は、
このようなものである。

世界が消え去る時、残ったものは
次の現れの種として、保持したまま
あの方の元へ行く、
あの方が宿るものに、
やり残したものは何も無い。

超自然原理であるあの方を、
神、ブラフマン、
何とでも呼ぶがいい。

真理は少数に宿る。

王は1人

世界、体、心はその変化を知る事の可能な
対象である。
あなたはこれらの変化を知る主体である。

知られる対象である体、心が王の
座につけば、真の存在、王は退き
失われる。

身体が王の座につけば、
他より良くありたい、
存在を誇示したいと言う欲望と
存在を失う事への恐れを生み、
欲望と恐れを基盤とした行為を生む。

行為は欲望と恐れの奴隷となり、
偽りの存在を誇示する事がその働きの主
だったものになる。

富、権力、力を得る事で存在を誇示する。
その手段として能力を高める事へ専念
するのだ。

存在を失ったがゆえの不安と恐れが、
存在への欲望を生み、
存在への無知が、誤った存在性を
勝ち取る事への病的な執着を生む。

だが偽りの存在、非存在が存在となる事は
決してない。
例え、存在感を得ても、それは一時的なもので
偽りの存在は満たされず、更に欲しがるようになる。
これらに果てはない。

稼いでも稼いでも、鍛えても鍛えても
どれだけ存在感を勝ち取ったとしても
満たされないのは、偽りの幸福、存在を
勝ち取ろうとしている事にある。

多くはこの状態にあり、この状態では、
全てのものが分離して見え、その中で
行為していると言う錯覚が付き纏う、

それは錯覚だと言う声は届かず。
そう言う声は狂言に聞こえるだろう。
突っ走る馬に念仏は届かない。

何度も何度も叩き上げられ、やがて苦しみが
現れる。
それにより熟考が始まる。
やがて、真の存在、王を知るようになり、
それに帰ろうとする働きは起こる。
今まで大切だと思い込んできたものがとても
小さく感じるようになるだろう。
そして真理を悟る事が最も尊いもの
だとも思えるだろう。

主体と対象への正しい理解は、
欲望と恐れからの解放を促し、
行為は、慈悲と愛が主導権を握り始めるだろう。

しかしまだ主体と対象と言う分離がある
限り完全ではない。
真の王はただ1つだ。

そこに分離はない。

今、在る

拒絶と受け入れ、
変動と不動、主体と対象、
これらは1つだ。
全ての極が交わる点

そこがわたしの住処である。

サードアイや中道、悟りとは、
特殊な能力の獲得を意味するものではなく、
全てが交わる点、あるいは全てを超えた点で
ある、常在の真理を指示した言わば方便だ。

それは今、ここに在る。

今に無く、後に訪れる能力の獲得への執着が、
今と言う真理を消し去る。
今に無いものは常在の真理とは呼べない。

神仏の名を使い、開運だの、引き寄せの力だの、
能力の開花だの、
根拠のあやふやな、今に無いものを
勝ち取る事を促す。

ブッダの説いた悟りについて、
多くのお坊様が、
心のあり方や行動について、
様々な道の指導者が、
今ここには無い、
獲得への道を教授する。

肩書や常識に捉われてはならない。

あり触れた多くが賛同する言葉、
それらに捉われる事で、
何よりも明らかな今を失い続ける。

例え心や行為を正そうと働きかけても、
今を知らないものが静寂である真を
知る事は決してない。
他を欺いても、己を欺く事は出来ない。
見せかけの不動は儚く崩れ去る。

内側を観ると、
欲望、恐れ、様々なマインドが
現れては消えていく、
今を離れる事で、心や行為の
奴隷となるだろう。

多くが持つ今と言う概念は、
真の静寂、今ではない。

勿論、今だけが在り、誰もが今に在る。
今とは、初めからそこにある真理そのものだ。
それは混じりけなく純粋なものであり、
目的なく意味なくそこにある。

それは絵を書く前の画用紙のようなものだ。
そこに創造されたものが色付けされると、
画用紙は色で覆い隠される。

意味なく目的無くそこにあるものに、
意味や目的が創造され、
それに捉われる事により、
その本質は覆い隠されてしまうのだ。

生きる目的とは生きる事である。
生に別の目的や意味はない。
にも拘らず人々は、生に意味を求め
生に別の目的を与えようとする。

夢や目標に向かう事に捉われるなら、
それらを実現する事が目的となり、
生は、それらを実現する為の手段となる。
それにより、それ自体が目的である生は
失われるのだ。

先を見据える事に際限はない。
目的を達成しても更に欲しがり、
目的を失ったものは生気を失う。
これらに捉われれば病的状態を生む、
それは生への無知から生まれるものだ。

生とは今を指すものであり、それは
存在そのものだ。
人々が生とみなすもの全ては生ではない。
それは非存在であり、
それは初めから死んでいる。

今を生きるとは、存在として留まる事だ。
全ての交わる点を見出し、
そこに立つことである。
それは、言葉で理解するものではない。

存在である彼は、
神を知り、真理を知り、幸福を知り、
全てを悟る。

彼だけが生きているのだ。

全てを悟るとは、物事のあり様の1つ1つを
知る事ではない。
それは物事は何も知る必要が無い事を悟るのだ。

真理の教えとは意味を消し去る為に、
物事に一時的な意味を与えたものだ。
今を発見したなら、全ては必要なくなるだろう。
森羅万象、神や仏、これらはただの言葉で、
実のところ何の意味もないのである。

既に明らかな今とはなにか?
それはこれであるとかそれであると
言えないものだ。
それは言葉を超え、マインドを超えた場所、
今に在る。