王は1人

世界、体、心はその変化を知る事の可能な
対象である。
あなたはこれらの変化を知る主体である。

知られる対象である体、心が王の
座につけば、真の存在、王は退き
失われる。

身体が王の座につけば、
他より良くありたい、
存在を誇示したいと言う欲望と
存在を失う事への恐れを生み、
欲望と恐れを基盤とした行為を生む。

行為は欲望と恐れの奴隷となり、
偽りの存在を誇示する事がその働きの主
だったものになる。

富、権力、力を得る事で存在を誇示する。
その手段として能力を高める事へ専念
するのだ。

存在を失ったがゆえの不安と恐れが、
存在への欲望を生み、
存在への無知が、誤った存在性を
勝ち取る事への病的な執着を生む。

だが偽りの存在、非存在が存在となる事は
決してない。
例え、存在感を得ても、それは一時的なもので
偽りの存在は満たされず、更に欲しがるようになる。
これらに果てはない。

稼いでも稼いでも、鍛えても鍛えても
どれだけ存在感を勝ち取ったとしても
満たされないのは、偽りの幸福、存在を
勝ち取ろうとしている事にある。

多くはこの状態にあり、この状態では、
全てのものが分離して見え、その中で
行為していると言う錯覚が付き纏う、

それは錯覚だと言う声は届かず。
そう言う声は狂言に聞こえるだろう。
突っ走る馬に念仏は届かない。

何度も何度も叩き上げられ、やがて苦しみが
現れる。
それにより熟考が始まる。
やがて、真の存在、王を知るようになり、
それに帰ろうとする働きは起こる。
今まで大切だと思い込んできたものがとても
小さく感じるようになるだろう。
そして真理を悟る事が最も尊いもの
だとも思えるだろう。

主体と対象への正しい理解は、
欲望と恐れからの解放を促し、
行為は、慈悲と愛が主導権を握り始めるだろう。

しかしまだ主体と対象と言う分離がある
限り完全ではない。
真の王はただ1つだ。

そこに分離はない。

コメントを残す