信じるものは救われる。

全てはくうであり、1つである。
それは何ものにも影響を与えず
影響を受ける事もない。

それが唯一の存在、わたしである。
全ては1つだが、1つのものに
分離を与えたのがマインドである。

根、幹、枝、葉、実
1つである木に分離を与えたのは知識であり、
マインドである。
木は木でさえない。

木は土から分離なく、土は世界から分離が無い。
世界は世界でさえない。

全ては1つで、わたしから切り離されたものは
何もない。
全てがわたしであり、
わたしはわたしでさえない。

主体と対象は、特定の形態を自己だとみなす
無智の状態へ向けられた教えであり、
事実は主体も対象もない。

陰と陽はマインドの領域にのみ存在する。

マインドとは雲のようなもので、
実態なく現れては消え去る。

マインドは分離を与え、分離した1つ1つに
定義を与える。
世界とはマインドそのものである。
ゆえに世界とはそれぞれの内に創造
されたそれぞれの印象に過ぎない。

時と共に変化し、現れては消える
マインドには確かなものはない。

マインドに現実性を与えれば、
マインドの奴隷となる。
マインドをあるがままに観て、
放っておくのだ。

やがてマインドは静かになるだろう。
その時、全ては1つだと気づくのだ。

ただ単に全ては1つだと言ってみたり、
思いなそうとしても、
1つでないと言う観念が残る限り、
分離はそこにある。
なによりそれが口先だけだと言う事
は知られている。

全てが1つである事の確信、
今ここに在るゼロを再認識する事、
それが真我(アートマン)実現と呼ばれるものだ。

帰依の道とは、全てが神であり、全てはそれと1つであると
完全に信じ、あの方を思い続ける事
我々に出来る事はそれだけだ。

更には我々が出来る事もまたあの方が決めて
くれていて、神と1つになる事に、我々は完全に無力である。

わたしが行為していると言う慢心が、
残っているなら、
神の元へ行く事は出来ないが、
それもまたあの方が残して下さっているのだ。

信じきり、完全に委ねる事で、
それは成される。

信じるものは救われるの真意は、
このようなものである。

世界が消え去る時、残ったものは
次の現れの種として、保持したまま
あの方の元へ行く、
あの方が宿るものに、
やり残したものは何も無い。

超自然原理であるあの方を、
神、ブラフマン、
何とでも呼ぶがいい。

真理は少数に宿る。

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