拒絶と受け入れ、
変動と不動、主体と対象、
これらは1つだ。
全ての極が交わる点
そこがわたしの住処である。
サードアイや中道、悟りとは、
特殊な能力の獲得を意味するものではなく、
全てが交わる点、あるいは全てを超えた点で
ある、常在の真理を指示した言わば方便だ。
それは今、ここに在る。
今に無く、後に訪れる能力の獲得への執着が、
今と言う真理を消し去る。
今に無いものは常在の真理とは呼べない。
神仏の名を使い、開運だの、引き寄せの力だの、
能力の開花だの、
根拠のあやふやな、今に無いものを
勝ち取る事を促す。
ブッダの説いた悟りについて、
多くのお坊様が、
心のあり方や行動について、
様々な道の指導者が、
今ここには無い、
獲得への道を教授する。
肩書や常識に捉われてはならない。
あり触れた多くが賛同する言葉、
それらに捉われる事で、
何よりも明らかな今を失い続ける。
例え心や行為を正そうと働きかけても、
今を知らないものが静寂である真を
知る事は決してない。
他を欺いても、己を欺く事は出来ない。
見せかけの不動は儚く崩れ去る。
内側を観ると、
欲望、恐れ、様々なマインドが
現れては消えていく、
今を離れる事で、心や行為の
奴隷となるだろう。
多くが持つ今と言う概念は、
真の静寂、今ではない。
勿論、今だけが在り、誰もが今に在る。
今とは、初めからそこにある真理そのものだ。
それは混じりけなく純粋なものであり、
目的なく意味なくそこにある。
それは絵を書く前の画用紙のようなものだ。
そこに創造されたものが色付けされると、
画用紙は色で覆い隠される。
意味なく目的無くそこにあるものに、
意味や目的が創造され、
それに捉われる事により、
その本質は覆い隠されてしまうのだ。
生きる目的とは生きる事である。
生に別の目的や意味はない。
にも拘らず人々は、生に意味を求め
生に別の目的を与えようとする。
夢や目標に向かう事に捉われるなら、
それらを実現する事が目的となり、
生は、それらを実現する為の手段となる。
それにより、それ自体が目的である生は
失われるのだ。
先を見据える事に際限はない。
目的を達成しても更に欲しがり、
目的を失ったものは生気を失う。
これらに捉われれば病的状態を生む、
それは生への無知から生まれるものだ。
生とは今を指すものであり、それは
存在そのものだ。
人々が生とみなすもの全ては生ではない。
それは非存在であり、
それは初めから死んでいる。
今を生きるとは、存在として留まる事だ。
全ての交わる点を見出し、
そこに立つことである。
それは、言葉で理解するものではない。
存在である彼は、
神を知り、真理を知り、幸福を知り、
全てを悟る。
彼だけが生きているのだ。
全てを悟るとは、物事のあり様の1つ1つを
知る事ではない。
それは物事は何も知る必要が無い事を悟るのだ。
真理の教えとは意味を消し去る為に、
物事に一時的な意味を与えたものだ。
今を発見したなら、全ては必要なくなるだろう。
森羅万象、神や仏、これらはただの言葉で、
実のところ何の意味もないのである。
既に明らかな今とはなにか?
それはこれであるとかそれであると
言えないものだ。
それは言葉を超え、マインドを超えた場所、
今に在る。