私は在ると言う感覚、
それは物質と意識を隔てるもので、
これが世界から独立した私と言う感覚を生む、
私は在ると言う感覚、
多くはこれを安定させようと、
色んな事を試みるが全て失敗に終わる。
私は在るは不動の様に現れては
いるが、それは偽物だ。
在ると言う感覚もまた知られる
対象であり、現われと消滅を繰り返す
断続的なものだ。
多くは、それが心地よく続いてほしいと願うが、
存続したいと言う欲望は非存在ゆえの
欲望である。
真の存在にその様な欲望はない。
真の存在、自己知識とは、
知覚可能な全てはわたしではない
と言う完全性の上に成り立つのだ。
存在は、今起こっている出来事や
行為の中にはないが、
それらが現れている時も、それらが終わった時
も存続し続けるのだ。
人々はこの自己知識なしで、行為や心の
あり様を正そうとするが、全ては失敗に終わる。
在ると言う感覚に深く潜っていきなさい。
在るに焦点を合わせなさいとは、
私と言う感覚、在ると言う感覚に向き合い、
それを徹底的に調べなさいと言う事、
在ると向き合い、それを見守る事で、
真の存在は明らかとなる。
その上で、全てはそれから離れてはいないと
悟るのだ。
自己知識のない行為は、欲望と恐れ、
執着と逃避を基盤として、それは
全て偽りの”私は在る”の為に機能する。
自己知識のない指導者の語る事は、
偽物の存在を豊かにさせようとする試みであり、
理想論でしかない。
それは偽物の存続の為のものだ。
偽物に完全性はない。
それは指導者自身がよく知っているだろう。
寛大にふるまい完全性を主張するが、
指導者もまた理想と現実の間で苦悩し、
己を欺き、他を欺いている。
個人が完全性を求める事は、
存在への愛ではあるが、誤った完全性は
慢心を生む。
完全とは個人の為のものではなく
全てを超え、全てを含む存在
を意味するものだ。
そしてそれが自己の本性だと悟る事で、
欲望と恐れは消え去り、
愛と慈悲が現れる。
行為の基盤は愛と慈悲が主導権を握るが、
それは個人としてのあり様に
世界のあり様に
完全性をもたらせるものではない。
これらは個人が完全性を得る為のもので
あってはならない。
それらは捨て去られなければならないからだ。
真の平和は全てを捧げる代償として
与えられるものである。