考えや行為に捉われる事で、 考えや行為の奴隷となる。

対象への依存が、日々の生活、人生と言う
幻想を生む。

物資的対象はそれぞれの精神的対象の基盤を構築し、
精神的対象はそれぞれの物質的対象の基盤を構築する。
それぞれに様々なストーリーを与える。

世界は見る角度(経験、状況、その他)
により見え方は異なるがゆえに
相反する考えを持つものが必ずそれぞれの
ストーリの中に現れる。

自分の考えと相反する考えを持つものに
対してその考えは誤りだとして、
洗脳されていると言う言葉を使う時がある。

それは、自分から見て、良くないとされる
行為を生む考えに対して使われるようだ。

自分から見て、対岸に住む者へ発信されるが、
向こう岸から見れば、自分がその言葉の
標的となる。

双方に違いはない。

その意味で、
誰もがそれぞれの考えに洗脳されていると言える。

洗脳とは、脳を洗うと書く、
それは考えを洗い流すと言う意味だ。
人々が使う意味で言うなら、
食脳、侵脳と言う類の言葉を設けるべきだ。

多くは様々な考えに捉われ、
己の欲望を満たす為の行為を繰り返す。
己を満たすための行為は、
尊敬、慈しみ、楽しみ、喜びを生む反面、
嫉妬、憎しみ、苦しみ、悲しみを生む、

考えや行為に捉われる事で、
考えや行為の奴隷となる。

何故、自発的に現れては消える対象、
考えや行為に執着するのか?

何故なら対象である自分を主体である
自己だと決めつけているからである。
最も根底にあるその考えに食脳されている為に、
最も良くない自己中心的考えや行為を
生むと言える。
その考えを洗い流し、その意味での洗脳を
するべきである。

私は体ではないと言う考えは、私は体である
と言う考えと同等に良くないものを生む、
どちらも対象として現れたものであり、
洗い流した脳に新たな考えを重ねてはならない。
それらに捉われてはならない。

考えを洗い流すには、考えは偽物である
と理解するだけで十分だ。
本物を探す必要はない。
現れては消える考えに本物はないからである。
勿論ここに記されている事も偽りだ。

ありとあらゆる方向から、私はこの体である
と言う考えと向き合い、それは本当なのか?
考えに真実はあるのか?と、徹底的に調べなさい。

偽物は偽物だと知られた瞬間、手放されるのだ。
全ての考えが手放された時、本当の意味での
洗脳が完成された時
あなたは1つの境地へと入っていく、

全ての考えが放棄されなお残るもの、
存在を発見するだろう。

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