個が全体に働きかけて初めて、 全体は個に働きかけるのだ。

個は全体の為に働きかけ、
全体は個に働きかける。
2つは1つだ。

政治は人々の上に立ち、
人々の生活の土台となる。

しかし個々が個々の為の働き、
娯楽やスポーツ、ビジネス、
我こそはと
己の欲望の為、快楽の追求の為、
個人の利益の追求に没頭するなら、
全体も個の為に機能しなくなるだろう。
全体を動かすのもまた個の働きであるからだ。

個人主義が蔓延する間は、
政治は特定の団体や個人に対して機能し
全体としての働きをやめてしまうのだ。

個が全体に働きかけて初めて、
全体は個に働きかけるのだ。

全体への働きとは、全体の為に耕し、実を育て、
食物連鎖の中で与えられる恵に感謝する。
勿論、そのあり様は時と共に変化するが、
個が己の利益の追求ではなく全体の為に働く事、
そういう思いを持った個々が集まり全体として
機能し始めると、それらを可能にする為の
環境を整える事、全体が機能し始めるだろう。

全体の働きとは、不自由なものにも
均等に恵を与えられる事を助け、
人より持とうとする事を抑圧する事だ。

盗んではならない、欺いてはならない。
限られた資源である全体のものを、立場
(与えられた能力、環境)を利用して、
必要以上に抱かえる行為、
それを実行するために
正義を振りかざす事が、
欺き盗む事だ。

殆どのものが結果を出す出さないに
拘わらず欺き盗もうと企んでいる。
成功や失敗などと、、
それは私的な欲望以外の何ものでもない。
それを夢や目標と言う綺麗な言葉で
包み隠しているだけだ。

快楽を覚えてしまった個人にとって、
私的欲望失くして生きている意味がないと
主張するだろう。
だが、生きる目的とは生きる事であり、
それ以上も以下もない。

欲望を満たす為に、多くは生きる事に
別の目的を与えているが、結局のところ、
誰も満たされないどころか、多くが苦しんでいる。
欲望を満たす為の行為は更なる欲望を呼び、
何処まで行っても満たされないのだ。

個を犠牲にする行為が全体を観たし
その結果、個が満たされるのである。

個が全体の為に正しく機能すれば、
全体は個の為の働きをするようになり、
個は全体により生かされ、守られる。
その秩序、全体は個が創り上げるのだ。

日本においては、
武士道やその他様々な道と呼ばれる
古い教えがあった。
主君の為に自らを押し殺し捧げる事、
国の為に捧げ、国の為に散る。
日本人の根底には全体の為の
働き、精神が備わっていたのだ。

白人はそれを奪い、黒人は白人を恐れた。
それに立ち向かい敗れ、失われた精神。
これらは、欲望と恐れ、そのどちらでもない
精神がある事の現れである。
世界はまさしく、全てのあり様を
反映させている。

全体の為の働きを日本は破壊されたが、
それは基盤である自己知識が完全では
なかったからだ。

日本人は全体への働きかけが、
自然にできていた。
しかし白人により欲しいものは
奪い取る事を教えられ、
偏差値教育がはびこってしまった。
偏差値教育は個の欲望を増大させる。
それは無智から生まれたものである。

それにより個は全体への働きかけを
忘れてしまい、自己中心的な働きを
生んだのだ。

真の全体への働きかけとは、
全体の為に働きかける行為を
指すものではない。
行為そのものは知られる対象である。

世界、体、心、感覚、意識、
これらは知られ、変化する対象であり、
それを知るもの、不動である主体とは?
全ての知識の根底にある知識、
わたしとは何か?

自己への無知は、対象である体と
主体である自己との同一視を生み、
自己中心的考えを生む、全体から
独立した個を生み、全体の為の
働きをやめてしまうのだ。

自己への理解が完全であるとき、
全体への働きかけも完全となる。
それは移り変わる教育により
揺らぐ事はない。

何故なら自己知識は知識の頂点にあり、
教育を超えているからである。
それを知れば、全体への働きかけを
失う事はないだろう。

ここに書かれた歴史認識などは、
私的なもので真実では無い。
だがそれは問題ではない。
問題はあなたが何であるかと言う事だ。

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