仏教もキリスト教も神道も、カルトと呼ばれるものと違いはない。

そこに何かがあると言うなら、
その何かがある事を可能にする前提がある事を示唆する。

物事の根底にある全ての前提とは、
主体であり、主体とは自己であるものに違いない。
何故なら主体を差し置いて対象である全ては存在できない、
そこに何かがあると言うには自己がなければ
ならないからだ。
ゆえに自己、わたしとは全ての根底に在ると言える。

主体とは目が目を見る事が出来ない様に、
自らを対象化出来ない。

その変化を対象として知る事の可能な
体、心の働きは自己ではあり得ない。

知るものを知る事は出来ない。
主体とは決して知る事の出来ないものであり、
ゆえに誰もがそれについて知らないのだ。
だがそれは誰にとっても明確なものである。
何故ならそこに知覚可能な対象が存在しているからだ。

主は全てを知っている。
全ての変化を知る主体を神と例えた。
神とは主体である自己を例えた方便であり、
真のわたしを指すものである。
それはそうあるものであり、それは真理である。

この道理が理解されなければ、ここで語られる事の
本質は知られないままだ。

全ての根底には全てのものにとって明らかな
真理が在り、
全ての出来事はその派生であり、それが道理である。

しかし道理が理解されないからと言って、
それは問題ではない。
何故なら、理解されない事もまた道理が導いていて、
そこに意志を持った個人と言うものは、
存在しないと言えるからである。

何を見て、何を聞き、何を学ぶか、
これらは、それぞれが見る世界が決定する。
皆にとって共通の世界は存在しない。
それぞれが見る世界は、
生まれた時、生まれた場所、生まれた環境、
生まれ持った能力、様々な個人的要素に支配されるが、
我々はこれらを選んではいないと言える。

個人的要素は、見る世界を決定付けるものではあるが、
それを個人の責任のみに押し付ける事は出来ない。
何故なら個人的要素を決定付けるのはそれぞれの
世界のあり様であるからだ。

個人の見方で世界が変わると言う事と
世界のあり様で個人が変わる事は表裏一体、
同じことである。

我々は何も選んではいないし、何もしていない、
あるいは全てを選択し、全てを行っている。

どちらにせよ、全てと言う大きな流れに従っている
と言える。

流れそのものに目的も意味もないと言え、
流れに目的を与え意味を与えるのはマインド
である。

流れそのもの、対象をあるがままに観る時、
あなたは1つの境地へと向かう、
それは大きな流れである世界から超然と
在る事を見出すのだ。

神仏とは主体を指示したものであるが、
主体の存在に無知で対象の存在にのみ捉われた人々は、
それらも対象として祭り上げてしまっているのだ。

なんであれ対象の中での対象についての知識は、
その中でのみ有効なものであり、
真実とは言えないものだ。

それは、それぞれのマインドにより異なるもので、
マインドから生まれた真実性は定かなものではない。
それは、真実だと信じる者だけの真実であり、
全てにおいての真実では無い。
それは真実では無く信仰であると言える。

対して主体とはマインドとは関係なくそこに在る。
それは知識で知る事ではなく、それとして在るものだ。

真理の教えはとは既に明らかな主体についての知識であり、
見出せば捨て去られる知識である。

強い信仰を促し金銭を要求するカルトと
呼ばれるものを人々は敬遠するが、
多くが信仰するしないに関わらず当たり前のように
のさばっている宗教、科学でさえ
対象への信仰を促し、何らかの形で額の問題ではなく
金銭を要求すると言う意味で違いはないと言えるが、
それが問題であるとは言えない。

道理を知ると言う事は、全ての信仰を
離れる事を意味し、それはある意味対象を
対象として正しく観る事を教え、
それを知る事に金銭は何の関係もないと言える。

重要な事はブッダやイエスの言葉の真意であり、
それは主体を指し示すものだ。
言葉の誤った解釈から生まれた対象へ向けられた知識、
宗教は無意味なものであると言える。

対象への依存も良いが、
主体として在る事を覚えて置く事、

誰もがそれとして在りながら、対象である知識に
溺れている。
知られるものに捉われ、知るものを見落としているのだ。
にも拘らずそれは誰にとっても明らかなもので、
それ以外のものはそれぞれの感想に過ぎない。

対象についての教えの真実性は全て
信仰するかしないかにかかっているもので、
真実では無いのだ。

人々の住む世界は自と他があり、その中で苦悩する。
その世界は、世界そのものが巨大な迷路で、
人々はその迷いの中で目的や意味を見出そうとするが、
どこまで行ってもその迷路から抜け出す事はない。

わたしの世界は、世界そのものがわたしである。
それは単一でシンプルなものだ。
そこに迷う事、迷わない事と言った二元性は存在せず、
意味も道理もない。

わたしはわたしである世界から、迷いの中に捉われた
憐れな人々を知覚している。

なんと無意味な事か。

現存の宗教、 信仰を与え、お金を集める事が既に 本質から離れ破綻している。

世界は知識に溢れ、人々は知識に溺れる。
知識の中に正しさを見出す事はない。

人々の正しさとは、一時的で儚いものだ。
人々の正しさは新たな知識の発見と共に
失われ、新たな発見は更なる発見にかき消される。
これらは無限に続いていく、

知識とは単に信仰を与えるだけだ。
それぞれの知識には信仰者が現れる。
知識と信仰は様々な為に対立を生むが、
信仰は何処まで行っても真実に到達できない。

真理を見出すには、多くが知識の獲得に
向かうのと逆行して、知識の放棄の
道を選ばなければならない。

宗教、哲学、政治、多くの分野で
知識をもってこれが正しいとやっているが、
そこに正しさが無い事は、未だに人々が
争い続けている事で証明されている。
それは今も昔もこれからも変わる事はないだろう。

知識の中に真実は永遠に見つからないのだ。

真理とはまっさらな何の混じりけもない純粋なものだ。
それを教える為に知識は現れ、信仰が現れた。
真理の教えが真理で無いものを生み、宗教が現れ
本末転倒を起こした。

最も真理を教えなければならないものが
最も真理を消し去ってしまっている。
多くは現存の宗教を見て、触れてはならないもの
関わってはならないものと境界線を引いた。
それは明らかに現実離れしてしまったからだ。

その中にあっても真の教えは確実に存在するが、
埋もれた真理を発見する事は稀な事だ。

人々は目を向けなければならない。
何故カルト的な宗教が蔓延っているのか?
神とは何か?
何がどうなって宗教が生まれたのかを

あなたが真理を見出す為には誰かの助けは
何の役にも立たない。
何故なら真理とはあなたそのものであり、
それを見出すのはあなた以外にあり得ないからだ。

その為にあなたは全ての知識を否定していかなければ
ならない。
あなたが生み出す全ては正しくないのだ。

わたしとは何か?
宇宙とは?
神とは?
これらの質問は全て同じレベルへと導くが、
それらへの回答はどれも正しくないのだ。

全ての回答を放棄し、なお残るそれが”それ”である。

本物はあらゆるペテンの中に隠れている。
ペテンの中から本物を見出すものは
稀な事だ。

更に真理として在るに到達するものは
殆どいないのである。

到達は全ての物質的、精神的活動からの
解放であり終焉を意味するものだ。
それは生死を超えて終焉するものである。

わたしは在る、真我実現とは? 実現でない事の実現、 言葉の矛盾に隠された真実 、

わたしは在る、それは明らかである。
だがそれは特定の方向を指すものではない。
その意味においては明らかなものではない。
明らかでないそれとそれではない異質の
何かとを結びつけた時、それは偽りとなる。

多くのそれは身体と結びつき、マインド、
世界の出来事、ありとあらゆるものと結び
ついている。

探求者は、わたしは在るを何か特別な、
限定された何かとして捉えようとする。
何かとしての限定された”わたしは在る”
は偽りだ。

何ものとも結びつく事のない純粋なそれ
(アートマン)として在る事の実現、
それが真我の実現と呼ぶものだ。
それは実在の放つ光のようなもので、
それを超えた彼方に至高の実在が在る。

実現とは意識の中においてのみ
表現されるものであり、
それを超えた彼方では実現も非実現もなく、
ただそれのみが存在する。

この自覚なしに、
体や心のあり様に安らぎを与える為、
あらゆる計画を企てても
良い結果を得る事はないだろう。

自覚のないそれらへの切望は、
体や心、宇宙の神秘と言った底なしの
知識を生み、その大海に溺れる結果と
なるだろう。

逆を言えば自覚がないからこそ、
体や心のあり様を変える為の計画や企て
に執着するのである。
それは不安や恐れの現れであり、
不安や恐れは無智から現れる。
日を知ら無い事、源への無知が無智である。

移り変わる全てはそれ自体の法則に従い
現れては消えていく、
それらを”それ”と混合し極端に注意がそちら側に
向かうなら、あなたはそれらの奴隷となる。

多くの指導者が自覚のないまま体や心の
あり様を正そうとしているが、
指導者自身が出来もしない事を指導し、
信仰者を一時的な解放を与えはするものの
後の混乱を招いている事を
指導者も信仰者も知る余地もない。

ポジティブに考えなさい。
深く考えないようにしなさい。

ポジティブに考えようとする事は
ネガティブの現れであり、
ポジティブになろうとする事が
ネガティブにさせている。
深く考えない様にする事は、
そこに深い考えが既にある事を前提とし
考えない様にすればするほど、
それは浮き彫りとなる。

強く在ろうとする事は弱さであり、
富むことは貧しさであり、
知識の獲得は無智ゆえである。
人々はなんと混乱している事か?
あり触れた言葉の数々は矛盾に満ち、
新たな矛盾を生む。

こうあるべきだ、こうしなさいと
私も言うが、それは単なる言葉の習慣と
性質によるものであり、
真実を前提とするものではない。

私にとっては私を含めたこれらは現れ
捨て去られてしまうものであり、
重みも軽さもない。
その意味で、
自覚の伴った言葉にどの様な矛盾もない。

言葉の矛盾は偏った信仰、執着から生まれる。
”逆も真なり”どちらにも真はない
あるいはどちらも真であると観る事で、
矛盾の壁はなくなるのだ。

ポジティブにあろうとする事が
ポジティブな事だと考えるは浅はかであり、
偏った考えだ。
ポジティブの中にネガティブが含まれる事を
忘れるべからず。
全ては2つで1つ、
その彼方に1つのものが在るのだ。

極端な表現を基盤とする言葉自体が矛盾
なのだ。
何故なら言葉の住処である世界その
ものが変動と言う極端に偏った矛盾そのもの
だからだ。

その彼方に矛盾はない。
それを知ったうえで、正しいものを正しく観て
偽りを偽りとして観る事、

わたしは在るをわたしは在るとして観る事は
偽りだ。
わたしは在るにわたしは在るを観ない事は
正しく観ている。