わたしは在る、真我実現とは? 実現でない事の実現、 言葉の矛盾に隠された真実 、

わたしは在る、それは明らかである。
だがそれは特定の方向を指すものではない。
その意味においては明らかなものではない。
明らかでないそれとそれではない異質の
何かとを結びつけた時、それは偽りとなる。

多くのそれは身体と結びつき、マインド、
世界の出来事、ありとあらゆるものと結び
ついている。

探求者は、わたしは在るを何か特別な、
限定された何かとして捉えようとする。
何かとしての限定された”わたしは在る”
は偽りだ。

何ものとも結びつく事のない純粋なそれ
(アートマン)として在る事の実現、
それが真我の実現と呼ぶものだ。
それは実在の放つ光のようなもので、
それを超えた彼方に至高の実在が在る。

実現とは意識の中においてのみ
表現されるものであり、
それを超えた彼方では実現も非実現もなく、
ただそれのみが存在する。

この自覚なしに、
体や心のあり様に安らぎを与える為、
あらゆる計画を企てても
良い結果を得る事はないだろう。

自覚のないそれらへの切望は、
体や心、宇宙の神秘と言った底なしの
知識を生み、その大海に溺れる結果と
なるだろう。

逆を言えば自覚がないからこそ、
体や心のあり様を変える為の計画や企て
に執着するのである。
それは不安や恐れの現れであり、
不安や恐れは無智から現れる。
日を知ら無い事、源への無知が無智である。

移り変わる全てはそれ自体の法則に従い
現れては消えていく、
それらを”それ”と混合し極端に注意がそちら側に
向かうなら、あなたはそれらの奴隷となる。

多くの指導者が自覚のないまま体や心の
あり様を正そうとしているが、
指導者自身が出来もしない事を指導し、
信仰者を一時的な解放を与えはするものの
後の混乱を招いている事を
指導者も信仰者も知る余地もない。

ポジティブに考えなさい。
深く考えないようにしなさい。

ポジティブに考えようとする事は
ネガティブの現れであり、
ポジティブになろうとする事が
ネガティブにさせている。
深く考えない様にする事は、
そこに深い考えが既にある事を前提とし
考えない様にすればするほど、
それは浮き彫りとなる。

強く在ろうとする事は弱さであり、
富むことは貧しさであり、
知識の獲得は無智ゆえである。
人々はなんと混乱している事か?
あり触れた言葉の数々は矛盾に満ち、
新たな矛盾を生む。

こうあるべきだ、こうしなさいと
私も言うが、それは単なる言葉の習慣と
性質によるものであり、
真実を前提とするものではない。

私にとっては私を含めたこれらは現れ
捨て去られてしまうものであり、
重みも軽さもない。
その意味で、
自覚の伴った言葉にどの様な矛盾もない。

言葉の矛盾は偏った信仰、執着から生まれる。
”逆も真なり”どちらにも真はない
あるいはどちらも真であると観る事で、
矛盾の壁はなくなるのだ。

ポジティブにあろうとする事が
ポジティブな事だと考えるは浅はかであり、
偏った考えだ。
ポジティブの中にネガティブが含まれる事を
忘れるべからず。
全ては2つで1つ、
その彼方に1つのものが在るのだ。

極端な表現を基盤とする言葉自体が矛盾
なのだ。
何故なら言葉の住処である世界その
ものが変動と言う極端に偏った矛盾そのもの
だからだ。

その彼方に矛盾はない。
それを知ったうえで、正しいものを正しく観て
偽りを偽りとして観る事、

わたしは在るをわたしは在るとして観る事は
偽りだ。
わたしは在るにわたしは在るを観ない事は
正しく観ている。

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