そこに何かがあると言うなら、
その何かがある事を可能にする前提がある事を示唆する。
物事の根底にある全ての前提とは、
主体であり、主体とは自己であるものに違いない。
何故なら主体を差し置いて対象である全ては存在できない、
そこに何かがあると言うには自己がなければ
ならないからだ。
ゆえに自己、わたしとは全ての根底に在ると言える。
主体とは目が目を見る事が出来ない様に、
自らを対象化出来ない。
その変化を対象として知る事の可能な
体、心の働きは自己ではあり得ない。
知るものを知る事は出来ない。
主体とは決して知る事の出来ないものであり、
ゆえに誰もがそれについて知らないのだ。
だがそれは誰にとっても明確なものである。
何故ならそこに知覚可能な対象が存在しているからだ。
主は全てを知っている。
全ての変化を知る主体を神と例えた。
神とは主体である自己を例えた方便であり、
真のわたしを指すものである。
それはそうあるものであり、それは真理である。
この道理が理解されなければ、ここで語られる事の
本質は知られないままだ。
全ての根底には全てのものにとって明らかな
真理が在り、
全ての出来事はその派生であり、それが道理である。
しかし道理が理解されないからと言って、
それは問題ではない。
何故なら、理解されない事もまた道理が導いていて、
そこに意志を持った個人と言うものは、
存在しないと言えるからである。
何を見て、何を聞き、何を学ぶか、
これらは、それぞれが見る世界が決定する。
皆にとって共通の世界は存在しない。
それぞれが見る世界は、
生まれた時、生まれた場所、生まれた環境、
生まれ持った能力、様々な個人的要素に支配されるが、
我々はこれらを選んではいないと言える。
個人的要素は、見る世界を決定付けるものではあるが、
それを個人の責任のみに押し付ける事は出来ない。
何故なら個人的要素を決定付けるのはそれぞれの
世界のあり様であるからだ。
個人の見方で世界が変わると言う事と
世界のあり様で個人が変わる事は表裏一体、
同じことである。
我々は何も選んではいないし、何もしていない、
あるいは全てを選択し、全てを行っている。
どちらにせよ、全てと言う大きな流れに従っている
と言える。
流れそのものに目的も意味もないと言え、
流れに目的を与え意味を与えるのはマインド
である。
流れそのもの、対象をあるがままに観る時、
あなたは1つの境地へと向かう、
それは大きな流れである世界から超然と
在る事を見出すのだ。
神仏とは主体を指示したものであるが、
主体の存在に無知で対象の存在にのみ捉われた人々は、
それらも対象として祭り上げてしまっているのだ。
なんであれ対象の中での対象についての知識は、
その中でのみ有効なものであり、
真実とは言えないものだ。
それは、それぞれのマインドにより異なるもので、
マインドから生まれた真実性は定かなものではない。
それは、真実だと信じる者だけの真実であり、
全てにおいての真実では無い。
それは真実では無く信仰であると言える。
対して主体とはマインドとは関係なくそこに在る。
それは知識で知る事ではなく、それとして在るものだ。
真理の教えはとは既に明らかな主体についての知識であり、
見出せば捨て去られる知識である。
強い信仰を促し金銭を要求するカルトと
呼ばれるものを人々は敬遠するが、
多くが信仰するしないに関わらず当たり前のように
のさばっている宗教、科学でさえ
対象への信仰を促し、何らかの形で額の問題ではなく
金銭を要求すると言う意味で違いはないと言えるが、
それが問題であるとは言えない。
道理を知ると言う事は、全ての信仰を
離れる事を意味し、それはある意味対象を
対象として正しく観る事を教え、
それを知る事に金銭は何の関係もないと言える。
重要な事はブッダやイエスの言葉の真意であり、
それは主体を指し示すものだ。
言葉の誤った解釈から生まれた対象へ向けられた知識、
宗教は無意味なものであると言える。
対象への依存も良いが、
主体として在る事を覚えて置く事、
誰もがそれとして在りながら、対象である知識に
溺れている。
知られるものに捉われ、知るものを見落としているのだ。
にも拘らずそれは誰にとっても明らかなもので、
それ以外のものはそれぞれの感想に過ぎない。
対象についての教えの真実性は全て
信仰するかしないかにかかっているもので、
真実では無いのだ。
人々の住む世界は自と他があり、その中で苦悩する。
その世界は、世界そのものが巨大な迷路で、
人々はその迷いの中で目的や意味を見出そうとするが、
どこまで行ってもその迷路から抜け出す事はない。
わたしの世界は、世界そのものがわたしである。
それは単一でシンプルなものだ。
そこに迷う事、迷わない事と言った二元性は存在せず、
意味も道理もない。
わたしはわたしである世界から、迷いの中に捉われた
憐れな人々を知覚している。
なんと無意味な事か。