余命宣告、病と闘う者へ

「人は何の為に生まれたのか?」

多くはこの問いに明確な回答を持ち
合わせていない。

夢を叶えるため、足跡を残すため、
笑うため、愛するため、
色々並び立ててもこれらは儚く消え去ってしまう。
存在への無知から現れた言葉は、
どれも生への執着を生むだけで、
死を目の前にしたものに安らぎを与え
満足させる事はないだろう。

余命宣告を受けたものに綺麗事は通用しない。
生にしがみつくものが今まさに死を目の前にして、
強く在る事が出来るだろうか?

生きる目的とは生きる事である。
人々は生きる事に目的や意味を見出そうとするが、
生きる事に目的も意味もない。

生きる事そのものが目的であるにも拘らず
それに意味や目的を与える事で、
生きる事はそれを叶えるための手段となり、
それ自体が目的である生は失われる。

生とは今に在る。
生が手段となれば、生は過程となり、
今と言う生は失われるのだ。

目的や意味にしがみつく生き物が
人以外にあるだろうか?
人以外の生き物が、生きる事、目的や意味について
考えるだろうか?
ただ生きる。
それだけの事だ。

生きる事に目的も意味もない。

これは事実だが、この回答はあなたに
満足を与えない。

最高の知識を語ろう。

知るものと知られるもの
主体と対象、

もしあなたが余命宣告を受けたなら聞くがいい
あなたは死なない。
何故なら、
あなたは病気になった体に気づいている。
ならば体も病も知覚される対象であり、
それを知るもの、主体であるあなたではない。
目が目を見る事が出来ない様に、
主体とは自らを対象化出来ない。
その変化を対象として捉える事が可能な
体、心の活動は主体である自己ではあり得ない。

病は現れた、あなたはそれに気づいた
それだけの事だ。
同じように体は現れた、そして去っていくだろう。
わたしはそれに気づいている。
それだけの事だ。
対象は全て現れては消える変化と言う質をもつ、
ならばその対極である主体はその真逆の不動の
質をもつに違いない。

それは死ぬ事も生きる事もない。

体の事は体が面倒を見る。
体は病と闘うだろう。
それは自然な事だ。
体は病魔に勝つかもしれないし負けるかもしれない。
あなたはそれを知るものであり知られる対象では
あり得ない。
わたしとは何か?
残る余生、この事だけに向き合いなさい。

聖典などで神の事を主と表現している。
主は全てを知っていると言う、
この真意は、わたし、自己は全ての変化を知る者である
と言う教えなのだ。

誤った解釈が神を対象に祭り上げ、
対象である体を主体と混合してしまっているのだ。

「人は何の為に生まれるの?」

人とは知覚可能な変動である世界の一部だ。
存在とはそれを知覚する主体である。
質問を変えよう、
「変動は何の為に生まれるの?」
光有れば影があるように、
自己である不動があるがゆえに変動はそこにある。

ここに主体である自己があるがゆえに、
そこに対象である体、心を含んだ世界がある。
ただそれだけの事だ。

変動の一部である身体に執着するなら、
身体が背負う束縛を受けるだろう。
その束縛は選べないのだ。
だが変動を変動として、偽りを偽りとして、
対象を対象として、執着なく正しく観る時、
身体的立場である不平等さは消え去り、
全ての束縛は消え去る。

変動する世界は、
不動であるあなたの前を現れては消えさるものだ。
それは全てにおいて平等なのだ。

これ以外の回答は、
あなたを迷いの中に連れていくだろう。
わたしに迷いはない。
わたしは今に在る。

そこに目的も意味もない。