既に明らかなものは全てのものにおいて 明らかである。

意識を含む全ての精神的活動は脳から生まれ、感覚は脳に伝達され処理される。                     それを含む身体は私自身であり、私はこれらをコントロールする。

これはある意味正しく、広く一般的な
認識である。
一般的に言われている事を人々は
調べることなく無条件に受け入れる。

しかし現実は、それをコントロールする
特定のものは存在しない。
もし個人がそれをコントロールしているなら
嫌いなものを瞬時に好きになる事、
その逆もしかり、悩み事を瞬時に消し去り、
思いのない幸福な日々を送れる事でしょう。

しかしそれらは様々な要因により縛られ、
繋がりの元機能する。

物質と精神は2つで1つ、物質を紐解いていけば、
脳の構造を突き詰めていけば、緊張や不安、
マインドの変化と共に脳にも変化が現れるだろう。

しかしそれは脳の中に精神が宿ると言う事の
証明にはならない。
脳の変化がマインドを変化させるのか?
マインドの変化の現れが脳であるのか?
物質の中に精神が宿るのか?
精神の現れが物質なのか?
これを証明する事は出来ない。

どちらにしても、それら変化は
知覚の対象であり、
知覚の対象は主であるわたしではない。

いつの時も苦悩と言う
束縛をもたらせるのは、
私はこの体であると言う想念が
根底にある事を忘れてはならない。

明らかでない事への執着が、
既に明らかなものを覆い隠す。

そこに世界があり、人々は様々な定義をつけて、
これは正しい、これは間違いだと
やっているが、そこに明らかなものはなく、
世界は、それらとは関係なく、
そこにある。

同じように、
存在とは、体である、ないに関わらず
ここに在る。

既に明らかなものは全てのものにおいて
明らかである。
わたしは在るは明らかである。
わたしは体である。
またはわたしは体ではないは明らかではない。

ここで語られている事は、明らかでないもの
全てを放棄しなさいと言う事で、
新たな何かを獲得しなさいと言う事では
ない。

放棄するとは、
意識がそれに向かう事をやめる事である。

偽物は偽物だと気づかれた瞬間、自動的に
放棄され、意識の焦点はそれらから外れるのだ。

知覚の対象は全て明らかなものではない。
知覚不可能なものこそ明らかなのだ。
そこに明らかでないものがある事で、
ここに明らかなものがある事を示唆している。

多くは誰にとっても明らかなものを
知らず、明らかでないものを
明らかなものだと思いなしているのだ。

明らかでないもの全てを
放棄しなお残る存在、それは自己存在ではない。

在る事とは何なのか?
見出すのです。

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