ある日、我々を創った存在がすべての動物を集めて言った。

「私にはふさわしい時が来るまで人間に隠しておきたいものがある。
それは人間は自分だけの現実を作り出している、ということだ」

「私にお預けください。月へ持って行ってしまいましょう」と鷲が言った。
「いや、人間はそのうち月まで行って見つけてしまうだろう」

「海の底はどうでしょう?」と鮭が言った。
「だめだ、そこでもみつけてしまう」

「大平原に埋めてしまいましょう」とバッファローが言った。
「すぐに掘り起こして見つけてしまうだろう」

「人間の内側に入れるのはどうでしょう」と賢いばあさんモグラが言った。
「それがいい。そこなら絶対に探さないだろう」

余命宣告、病と闘う者へ

「人は何の為に生まれたのか?」

多くはこの問いに明確な回答を持ち
合わせていない。

夢を叶えるため、足跡を残すため、
笑うため、愛するため、
色々並び立ててもこれらは儚く消え去ってしまう。
存在への無知から現れた言葉は、
どれも生への執着を生むだけで、
死を目の前にしたものに安らぎを与え
満足させる事はないだろう。

余命宣告を受けたものに綺麗事は通用しない。
生にしがみつくものが今まさに死を目の前にして、
強く在る事が出来るだろうか?

生きる目的とは生きる事である。
人々は生きる事に目的や意味を見出そうとするが、
生きる事に目的も意味もない。

生きる事そのものが目的であるにも拘らず
それに意味や目的を与える事で、
生きる事はそれを叶えるための手段となり、
それ自体が目的である生は失われる。

生とは今に在る。
生が手段となれば、生は過程となり、
今と言う生は失われるのだ。

目的や意味にしがみつく生き物が
人以外にあるだろうか?
人以外の生き物が、生きる事、目的や意味について
考えるだろうか?
ただ生きる。
それだけの事だ。

生きる事に目的も意味もない。

これは事実だが、この回答はあなたに
満足を与えない。

最高の知識を語ろう。

知るものと知られるもの
主体と対象、

もしあなたが余命宣告を受けたなら聞くがいい
あなたは死なない。
何故なら、
あなたは病気になった体に気づいている。
ならば体も病も知覚される対象であり、
それを知るもの、主体であるあなたではない。
目が目を見る事が出来ない様に、
主体とは自らを対象化出来ない。
その変化を対象として捉える事が可能な
体、心の活動は主体である自己ではあり得ない。

病は現れた、あなたはそれに気づいた
それだけの事だ。
同じように体は現れた、そして去っていくだろう。
わたしはそれに気づいている。
それだけの事だ。
対象は全て現れては消える変化と言う質をもつ、
ならばその対極である主体はその真逆の不動の
質をもつに違いない。

それは死ぬ事も生きる事もない。

体の事は体が面倒を見る。
体は病と闘うだろう。
それは自然な事だ。
体は病魔に勝つかもしれないし負けるかもしれない。
あなたはそれを知るものであり知られる対象では
あり得ない。
わたしとは何か?
残る余生、この事だけに向き合いなさい。

聖典などで神の事を主と表現している。
主は全てを知っていると言う、
この真意は、わたし、自己は全ての変化を知る者である
と言う教えなのだ。

誤った解釈が神を対象に祭り上げ、
対象である体を主体と混合してしまっているのだ。

「人は何の為に生まれるの?」

人とは知覚可能な変動である世界の一部だ。
存在とはそれを知覚する主体である。
質問を変えよう、
「変動は何の為に生まれるの?」
光有れば影があるように、
自己である不動があるがゆえに変動はそこにある。

ここに主体である自己があるがゆえに、
そこに対象である体、心を含んだ世界がある。
ただそれだけの事だ。

変動の一部である身体に執着するなら、
身体が背負う束縛を受けるだろう。
その束縛は選べないのだ。
だが変動を変動として、偽りを偽りとして、
対象を対象として、執着なく正しく観る時、
身体的立場である不平等さは消え去り、
全ての束縛は消え去る。

変動する世界は、
不動であるあなたの前を現れては消えさるものだ。
それは全てにおいて平等なのだ。

これ以外の回答は、
あなたを迷いの中に連れていくだろう。
わたしに迷いはない。
わたしは今に在る。

そこに目的も意味もない。

仏教もキリスト教も神道も、カルトと呼ばれるものと違いはない。

そこに何かがあると言うなら、
その何かがある事を可能にする前提がある事を示唆する。

物事の根底にある全ての前提とは、
主体であり、主体とは自己であるものに違いない。
何故なら主体を差し置いて対象である全ては存在できない、
そこに何かがあると言うには自己がなければ
ならないからだ。
ゆえに自己、わたしとは全ての根底に在ると言える。

主体とは目が目を見る事が出来ない様に、
自らを対象化出来ない。

その変化を対象として知る事の可能な
体、心の働きは自己ではあり得ない。

知るものを知る事は出来ない。
主体とは決して知る事の出来ないものであり、
ゆえに誰もがそれについて知らないのだ。
だがそれは誰にとっても明確なものである。
何故ならそこに知覚可能な対象が存在しているからだ。

主は全てを知っている。
全ての変化を知る主体を神と例えた。
神とは主体である自己を例えた方便であり、
真のわたしを指すものである。
それはそうあるものであり、それは真理である。

この道理が理解されなければ、ここで語られる事の
本質は知られないままだ。

全ての根底には全てのものにとって明らかな
真理が在り、
全ての出来事はその派生であり、それが道理である。

しかし道理が理解されないからと言って、
それは問題ではない。
何故なら、理解されない事もまた道理が導いていて、
そこに意志を持った個人と言うものは、
存在しないと言えるからである。

何を見て、何を聞き、何を学ぶか、
これらは、それぞれが見る世界が決定する。
皆にとって共通の世界は存在しない。
それぞれが見る世界は、
生まれた時、生まれた場所、生まれた環境、
生まれ持った能力、様々な個人的要素に支配されるが、
我々はこれらを選んではいないと言える。

個人的要素は、見る世界を決定付けるものではあるが、
それを個人の責任のみに押し付ける事は出来ない。
何故なら個人的要素を決定付けるのはそれぞれの
世界のあり様であるからだ。

個人の見方で世界が変わると言う事と
世界のあり様で個人が変わる事は表裏一体、
同じことである。

我々は何も選んではいないし、何もしていない、
あるいは全てを選択し、全てを行っている。

どちらにせよ、全てと言う大きな流れに従っている
と言える。

流れそのものに目的も意味もないと言え、
流れに目的を与え意味を与えるのはマインド
である。

流れそのもの、対象をあるがままに観る時、
あなたは1つの境地へと向かう、
それは大きな流れである世界から超然と
在る事を見出すのだ。

神仏とは主体を指示したものであるが、
主体の存在に無知で対象の存在にのみ捉われた人々は、
それらも対象として祭り上げてしまっているのだ。

なんであれ対象の中での対象についての知識は、
その中でのみ有効なものであり、
真実とは言えないものだ。

それは、それぞれのマインドにより異なるもので、
マインドから生まれた真実性は定かなものではない。
それは、真実だと信じる者だけの真実であり、
全てにおいての真実では無い。
それは真実では無く信仰であると言える。

対して主体とはマインドとは関係なくそこに在る。
それは知識で知る事ではなく、それとして在るものだ。

真理の教えはとは既に明らかな主体についての知識であり、
見出せば捨て去られる知識である。

強い信仰を促し金銭を要求するカルトと
呼ばれるものを人々は敬遠するが、
多くが信仰するしないに関わらず当たり前のように
のさばっている宗教、科学でさえ
対象への信仰を促し、何らかの形で額の問題ではなく
金銭を要求すると言う意味で違いはないと言えるが、
それが問題であるとは言えない。

道理を知ると言う事は、全ての信仰を
離れる事を意味し、それはある意味対象を
対象として正しく観る事を教え、
それを知る事に金銭は何の関係もないと言える。

重要な事はブッダやイエスの言葉の真意であり、
それは主体を指し示すものだ。
言葉の誤った解釈から生まれた対象へ向けられた知識、
宗教は無意味なものであると言える。

対象への依存も良いが、
主体として在る事を覚えて置く事、

誰もがそれとして在りながら、対象である知識に
溺れている。
知られるものに捉われ、知るものを見落としているのだ。
にも拘らずそれは誰にとっても明らかなもので、
それ以外のものはそれぞれの感想に過ぎない。

対象についての教えの真実性は全て
信仰するかしないかにかかっているもので、
真実では無いのだ。

人々の住む世界は自と他があり、その中で苦悩する。
その世界は、世界そのものが巨大な迷路で、
人々はその迷いの中で目的や意味を見出そうとするが、
どこまで行ってもその迷路から抜け出す事はない。

わたしの世界は、世界そのものがわたしである。
それは単一でシンプルなものだ。
そこに迷う事、迷わない事と言った二元性は存在せず、
意味も道理もない。

わたしはわたしである世界から、迷いの中に捉われた
憐れな人々を知覚している。

なんと無意味な事か。

現存の宗教、 信仰を与え、お金を集める事が既に 本質から離れ破綻している。

世界は知識に溢れ、人々は知識に溺れる。
知識の中に正しさを見出す事はない。

人々の正しさとは、一時的で儚いものだ。
人々の正しさは新たな知識の発見と共に
失われ、新たな発見は更なる発見にかき消される。
これらは無限に続いていく、

知識とは単に信仰を与えるだけだ。
それぞれの知識には信仰者が現れる。
知識と信仰は様々な為に対立を生むが、
信仰は何処まで行っても真実に到達できない。

真理を見出すには、多くが知識の獲得に
向かうのと逆行して、知識の放棄の
道を選ばなければならない。

宗教、哲学、政治、多くの分野で
知識をもってこれが正しいとやっているが、
そこに正しさが無い事は、未だに人々が
争い続けている事で証明されている。
それは今も昔もこれからも変わる事はないだろう。

知識の中に真実は永遠に見つからないのだ。

真理とはまっさらな何の混じりけもない純粋なものだ。
それを教える為に知識は現れ、信仰が現れた。
真理の教えが真理で無いものを生み、宗教が現れ
本末転倒を起こした。

最も真理を教えなければならないものが
最も真理を消し去ってしまっている。
多くは現存の宗教を見て、触れてはならないもの
関わってはならないものと境界線を引いた。
それは明らかに現実離れしてしまったからだ。

その中にあっても真の教えは確実に存在するが、
埋もれた真理を発見する事は稀な事だ。

人々は目を向けなければならない。
何故カルト的な宗教が蔓延っているのか?
神とは何か?
何がどうなって宗教が生まれたのかを

あなたが真理を見出す為には誰かの助けは
何の役にも立たない。
何故なら真理とはあなたそのものであり、
それを見出すのはあなた以外にあり得ないからだ。

その為にあなたは全ての知識を否定していかなければ
ならない。
あなたが生み出す全ては正しくないのだ。

わたしとは何か?
宇宙とは?
神とは?
これらの質問は全て同じレベルへと導くが、
それらへの回答はどれも正しくないのだ。

全ての回答を放棄し、なお残るそれが”それ”である。

本物はあらゆるペテンの中に隠れている。
ペテンの中から本物を見出すものは
稀な事だ。

更に真理として在るに到達するものは
殆どいないのである。

到達は全ての物質的、精神的活動からの
解放であり終焉を意味するものだ。
それは生死を超えて終焉するものである。

わたしは在る、真我実現とは? 実現でない事の実現、 言葉の矛盾に隠された真実 、

わたしは在る、それは明らかである。
だがそれは特定の方向を指すものではない。
その意味においては明らかなものではない。
明らかでないそれとそれではない異質の
何かとを結びつけた時、それは偽りとなる。

多くのそれは身体と結びつき、マインド、
世界の出来事、ありとあらゆるものと結び
ついている。

探求者は、わたしは在るを何か特別な、
限定された何かとして捉えようとする。
何かとしての限定された”わたしは在る”
は偽りだ。

何ものとも結びつく事のない純粋なそれ
(アートマン)として在る事の実現、
それが真我の実現と呼ぶものだ。
それは実在の放つ光のようなもので、
それを超えた彼方に至高の実在が在る。

実現とは意識の中においてのみ
表現されるものであり、
それを超えた彼方では実現も非実現もなく、
ただそれのみが存在する。

この自覚なしに、
体や心のあり様に安らぎを与える為、
あらゆる計画を企てても
良い結果を得る事はないだろう。

自覚のないそれらへの切望は、
体や心、宇宙の神秘と言った底なしの
知識を生み、その大海に溺れる結果と
なるだろう。

逆を言えば自覚がないからこそ、
体や心のあり様を変える為の計画や企て
に執着するのである。
それは不安や恐れの現れであり、
不安や恐れは無智から現れる。
日を知ら無い事、源への無知が無智である。

移り変わる全てはそれ自体の法則に従い
現れては消えていく、
それらを”それ”と混合し極端に注意がそちら側に
向かうなら、あなたはそれらの奴隷となる。

多くの指導者が自覚のないまま体や心の
あり様を正そうとしているが、
指導者自身が出来もしない事を指導し、
信仰者を一時的な解放を与えはするものの
後の混乱を招いている事を
指導者も信仰者も知る余地もない。

ポジティブに考えなさい。
深く考えないようにしなさい。

ポジティブに考えようとする事は
ネガティブの現れであり、
ポジティブになろうとする事が
ネガティブにさせている。
深く考えない様にする事は、
そこに深い考えが既にある事を前提とし
考えない様にすればするほど、
それは浮き彫りとなる。

強く在ろうとする事は弱さであり、
富むことは貧しさであり、
知識の獲得は無智ゆえである。
人々はなんと混乱している事か?
あり触れた言葉の数々は矛盾に満ち、
新たな矛盾を生む。

こうあるべきだ、こうしなさいと
私も言うが、それは単なる言葉の習慣と
性質によるものであり、
真実を前提とするものではない。

私にとっては私を含めたこれらは現れ
捨て去られてしまうものであり、
重みも軽さもない。
その意味で、
自覚の伴った言葉にどの様な矛盾もない。

言葉の矛盾は偏った信仰、執着から生まれる。
”逆も真なり”どちらにも真はない
あるいはどちらも真であると観る事で、
矛盾の壁はなくなるのだ。

ポジティブにあろうとする事が
ポジティブな事だと考えるは浅はかであり、
偏った考えだ。
ポジティブの中にネガティブが含まれる事を
忘れるべからず。
全ては2つで1つ、
その彼方に1つのものが在るのだ。

極端な表現を基盤とする言葉自体が矛盾
なのだ。
何故なら言葉の住処である世界その
ものが変動と言う極端に偏った矛盾そのもの
だからだ。

その彼方に矛盾はない。
それを知ったうえで、正しいものを正しく観て
偽りを偽りとして観る事、

わたしは在るをわたしは在るとして観る事は
偽りだ。
わたしは在るにわたしは在るを観ない事は
正しく観ている。

何をもって存在している事を知るだろうか?

わたしとは全ての根底に在るもの
そこに何かが有ると言うにはわたしがなければ
ならない。

わたしがなければわたしは存在するとさえ
言えからである。
ゆえにわたしとはわたしは在ると言う事さえ
超えている何かであり、
全てを可能にする可能性であり、
それは不可視なものである。

そこに結果として現れている出来事が
あることで、わたしはわたしをその可能性で
在る事を知る。

そこに変化する世界がある事で、
わたしは不動である事を知る。

そこに物事が有る事で、
わたしは無である事を知る。

人々は有る事の中で真実を探ろうとするが、
わたしはそこに真実が無い事を知る。
何故ならわたしが真実であるからだ。

人々は存在していると言う感覚が
ある事でそれがわたしだと思いなし、
わたしは存在すると思いなす。
わたしはそこに存在の感覚がある事で、
わたしはそれではない事を知り、
わたしは存在しない事を知る。

出現と消滅を繰り返す感覚と
同化する多くは消滅を恐れるのだ。

わたしは恐れない。
何故ならわたしは無であり、存在する事も
存在しない事もないからだ。

そこに生と死がある事で、
わたしは生も死も無い事を知る。

そこに全てが有る事で、
わたしは空っぽだと悟るのだ。

個が全体に働きかけて初めて、 全体は個に働きかけるのだ。

個は全体の為に働きかけ、
全体は個に働きかける。
2つは1つだ。

政治は人々の上に立ち、
人々の生活の土台となる。

しかし個々が個々の為の働き、
娯楽やスポーツ、ビジネス、
我こそはと
己の欲望の為、快楽の追求の為、
個人の利益の追求に没頭するなら、
全体も個の為に機能しなくなるだろう。
全体を動かすのもまた個の働きであるからだ。

個人主義が蔓延する間は、
政治は特定の団体や個人に対して機能し
全体としての働きをやめてしまうのだ。

個が全体に働きかけて初めて、
全体は個に働きかけるのだ。

全体への働きとは、全体の為に耕し、実を育て、
食物連鎖の中で与えられる恵に感謝する。
勿論、そのあり様は時と共に変化するが、
個が己の利益の追求ではなく全体の為に働く事、
そういう思いを持った個々が集まり全体として
機能し始めると、それらを可能にする為の
環境を整える事、全体が機能し始めるだろう。

全体の働きとは、不自由なものにも
均等に恵を与えられる事を助け、
人より持とうとする事を抑圧する事だ。

盗んではならない、欺いてはならない。
限られた資源である全体のものを、立場
(与えられた能力、環境)を利用して、
必要以上に抱かえる行為、
それを実行するために
正義を振りかざす事が、
欺き盗む事だ。

殆どのものが結果を出す出さないに
拘わらず欺き盗もうと企んでいる。
成功や失敗などと、、
それは私的な欲望以外の何ものでもない。
それを夢や目標と言う綺麗な言葉で
包み隠しているだけだ。

快楽を覚えてしまった個人にとって、
私的欲望失くして生きている意味がないと
主張するだろう。
だが、生きる目的とは生きる事であり、
それ以上も以下もない。

欲望を満たす為に、多くは生きる事に
別の目的を与えているが、結局のところ、
誰も満たされないどころか、多くが苦しんでいる。
欲望を満たす為の行為は更なる欲望を呼び、
何処まで行っても満たされないのだ。

個を犠牲にする行為が全体を観たし
その結果、個が満たされるのである。

個が全体の為に正しく機能すれば、
全体は個の為の働きをするようになり、
個は全体により生かされ、守られる。
その秩序、全体は個が創り上げるのだ。

日本においては、
武士道やその他様々な道と呼ばれる
古い教えがあった。
主君の為に自らを押し殺し捧げる事、
国の為に捧げ、国の為に散る。
日本人の根底には全体の為の
働き、精神が備わっていたのだ。

白人はそれを奪い、黒人は白人を恐れた。
それに立ち向かい敗れ、失われた精神。
これらは、欲望と恐れ、そのどちらでもない
精神がある事の現れである。
世界はまさしく、全てのあり様を
反映させている。

全体の為の働きを日本は破壊されたが、
それは基盤である自己知識が完全では
なかったからだ。

日本人は全体への働きかけが、
自然にできていた。
しかし白人により欲しいものは
奪い取る事を教えられ、
偏差値教育がはびこってしまった。
偏差値教育は個の欲望を増大させる。
それは無智から生まれたものである。

それにより個は全体への働きかけを
忘れてしまい、自己中心的な働きを
生んだのだ。

真の全体への働きかけとは、
全体の為に働きかける行為を
指すものではない。
行為そのものは知られる対象である。

世界、体、心、感覚、意識、
これらは知られ、変化する対象であり、
それを知るもの、不動である主体とは?
全ての知識の根底にある知識、
わたしとは何か?

自己への無知は、対象である体と
主体である自己との同一視を生み、
自己中心的考えを生む、全体から
独立した個を生み、全体の為の
働きをやめてしまうのだ。

自己への理解が完全であるとき、
全体への働きかけも完全となる。
それは移り変わる教育により
揺らぐ事はない。

何故なら自己知識は知識の頂点にあり、
教育を超えているからである。
それを知れば、全体への働きかけを
失う事はないだろう。

ここに書かれた歴史認識などは、
私的なもので真実では無い。
だがそれは問題ではない。
問題はあなたが何であるかと言う事だ。

考えや行為に捉われる事で、 考えや行為の奴隷となる。

対象への依存が、日々の生活、人生と言う
幻想を生む。

物資的対象はそれぞれの精神的対象の基盤を構築し、
精神的対象はそれぞれの物質的対象の基盤を構築する。
それぞれに様々なストーリーを与える。

世界は見る角度(経験、状況、その他)
により見え方は異なるがゆえに
相反する考えを持つものが必ずそれぞれの
ストーリの中に現れる。

自分の考えと相反する考えを持つものに
対してその考えは誤りだとして、
洗脳されていると言う言葉を使う時がある。

それは、自分から見て、良くないとされる
行為を生む考えに対して使われるようだ。

自分から見て、対岸に住む者へ発信されるが、
向こう岸から見れば、自分がその言葉の
標的となる。

双方に違いはない。

その意味で、
誰もがそれぞれの考えに洗脳されていると言える。

洗脳とは、脳を洗うと書く、
それは考えを洗い流すと言う意味だ。
人々が使う意味で言うなら、
食脳、侵脳と言う類の言葉を設けるべきだ。

多くは様々な考えに捉われ、
己の欲望を満たす為の行為を繰り返す。
己を満たすための行為は、
尊敬、慈しみ、楽しみ、喜びを生む反面、
嫉妬、憎しみ、苦しみ、悲しみを生む、

考えや行為に捉われる事で、
考えや行為の奴隷となる。

何故、自発的に現れては消える対象、
考えや行為に執着するのか?

何故なら対象である自分を主体である
自己だと決めつけているからである。
最も根底にあるその考えに食脳されている為に、
最も良くない自己中心的考えや行為を
生むと言える。
その考えを洗い流し、その意味での洗脳を
するべきである。

私は体ではないと言う考えは、私は体である
と言う考えと同等に良くないものを生む、
どちらも対象として現れたものであり、
洗い流した脳に新たな考えを重ねてはならない。
それらに捉われてはならない。

考えを洗い流すには、考えは偽物である
と理解するだけで十分だ。
本物を探す必要はない。
現れては消える考えに本物はないからである。
勿論ここに記されている事も偽りだ。

ありとあらゆる方向から、私はこの体である
と言う考えと向き合い、それは本当なのか?
考えに真実はあるのか?と、徹底的に調べなさい。

偽物は偽物だと知られた瞬間、手放されるのだ。
全ての考えが手放された時、本当の意味での
洗脳が完成された時
あなたは1つの境地へと入っていく、

全ての考えが放棄されなお残るもの、
存在を発見するだろう。

自己知識のない行為は偽りの ”私は在る”の為に機能する。

私は在ると言う感覚、

それは物質と意識を隔てるもので、
これが世界から独立した私と言う感覚を生む、

私は在ると言う感覚、
多くはこれを安定させようと、
色んな事を試みるが全て失敗に終わる。

私は在るは不動の様に現れては
いるが、それは偽物だ。

在ると言う感覚もまた知られる
対象であり、現われと消滅を繰り返す
断続的なものだ。

多くは、それが心地よく続いてほしいと願うが、
存続したいと言う欲望は非存在ゆえの
欲望である。
真の存在にその様な欲望はない。

真の存在、自己知識とは、
知覚可能な全てはわたしではない
と言う完全性の上に成り立つのだ。

存在は、今起こっている出来事や
行為の中にはないが、
それらが現れている時も、それらが終わった時
も存続し続けるのだ。

人々はこの自己知識なしで、行為や心の
あり様を正そうとするが、全ては失敗に終わる。

在ると言う感覚に深く潜っていきなさい。
在るに焦点を合わせなさいとは、
私と言う感覚、在ると言う感覚に向き合い、
それを徹底的に調べなさいと言う事、
在ると向き合い、それを見守る事で、
真の存在は明らかとなる。
その上で、全てはそれから離れてはいないと
悟るのだ。

自己知識のない行為は、欲望と恐れ、
執着と逃避を基盤として、それは
全て偽りの”私は在る”の為に機能する。
自己知識のない指導者の語る事は、
偽物の存在を豊かにさせようとする試みであり、
理想論でしかない。
それは偽物の存続の為のものだ。

偽物に完全性はない。
それは指導者自身がよく知っているだろう。
寛大にふるまい完全性を主張するが、
指導者もまた理想と現実の間で苦悩し、
己を欺き、他を欺いている。
個人が完全性を求める事は、
存在への愛ではあるが、誤った完全性は
慢心を生む。

完全とは個人の為のものではなく
全てを超え、全てを含む存在
を意味するものだ。

そしてそれが自己の本性だと悟る事で、
欲望と恐れは消え去り、
愛と慈悲が現れる。

行為の基盤は愛と慈悲が主導権を握るが、
それは個人としてのあり様に
世界のあり様に
完全性をもたらせるものではない。

これらは個人が完全性を得る為のもので
あってはならない。
それらは捨て去られなければならないからだ。

真の平和は全てを捧げる代償として
与えられるものである。

既に明らかなものは全てのものにおいて 明らかである。

意識を含む全ての精神的活動は脳から生まれ、感覚は脳に伝達され処理される。                     それを含む身体は私自身であり、私はこれらをコントロールする。

これはある意味正しく、広く一般的な
認識である。
一般的に言われている事を人々は
調べることなく無条件に受け入れる。

しかし現実は、それをコントロールする
特定のものは存在しない。
もし個人がそれをコントロールしているなら
嫌いなものを瞬時に好きになる事、
その逆もしかり、悩み事を瞬時に消し去り、
思いのない幸福な日々を送れる事でしょう。

しかしそれらは様々な要因により縛られ、
繋がりの元機能する。

物質と精神は2つで1つ、物質を紐解いていけば、
脳の構造を突き詰めていけば、緊張や不安、
マインドの変化と共に脳にも変化が現れるだろう。

しかしそれは脳の中に精神が宿ると言う事の
証明にはならない。
脳の変化がマインドを変化させるのか?
マインドの変化の現れが脳であるのか?
物質の中に精神が宿るのか?
精神の現れが物質なのか?
これを証明する事は出来ない。

どちらにしても、それら変化は
知覚の対象であり、
知覚の対象は主であるわたしではない。

いつの時も苦悩と言う
束縛をもたらせるのは、
私はこの体であると言う想念が
根底にある事を忘れてはならない。

明らかでない事への執着が、
既に明らかなものを覆い隠す。

そこに世界があり、人々は様々な定義をつけて、
これは正しい、これは間違いだと
やっているが、そこに明らかなものはなく、
世界は、それらとは関係なく、
そこにある。

同じように、
存在とは、体である、ないに関わらず
ここに在る。

既に明らかなものは全てのものにおいて
明らかである。
わたしは在るは明らかである。
わたしは体である。
またはわたしは体ではないは明らかではない。

ここで語られている事は、明らかでないもの
全てを放棄しなさいと言う事で、
新たな何かを獲得しなさいと言う事では
ない。

放棄するとは、
意識がそれに向かう事をやめる事である。

偽物は偽物だと気づかれた瞬間、自動的に
放棄され、意識の焦点はそれらから外れるのだ。

知覚の対象は全て明らかなものではない。
知覚不可能なものこそ明らかなのだ。
そこに明らかでないものがある事で、
ここに明らかなものがある事を示唆している。

多くは誰にとっても明らかなものを
知らず、明らかでないものを
明らかなものだと思いなしているのだ。

明らかでないもの全てを
放棄しなお残る存在、それは自己存在ではない。

在る事とは何なのか?
見出すのです。