夢や希望を持つ事、夢や希望を 与える事は、良くも悪くもある。

夢を持ち、夢を叶える事、
それを見て勇気付けられものがいる。

その反面、嫉妬や増悪、妬むものもいる。

夢を勝ち取り、栄光を掴むものがいる。
半面、挫折しどん底に落ちる者がいる。

全ては2つで1つ
宇宙はそうやってバランスをとるのだ。

限られた富を奪い合う、富を勝ち取る者が現れるなら、
富を失うものが現れる。

巨額の富の背後には、きつい労働に虐げられる者や貧困がある。

だがそこに善悪はない。

何故なら、全てにとって良いものも悪いものもないからである。

誰かにとって良いものがあるなら、
誰かにとって悪いものがあると言う事、

それは、その様に機能している。

一握りの栄光を掴みとったものだけが
称賛されるが、その背後にある多くの、人知れず苦しむ者、
人知れず死んでいったものに多くは無関心である。

その明暗は、努力や能力だけでは測れない。
それは、様々な要因からなる一時的な結果として現れる。
全ては繋がりから起こる事で、個人の功績も失敗もない。

高額納税者が社会に貢献していると見られる風潮があるが、
それにより、多くの納税できないくらいやせ細ったものを
生み出している事を、誰も知る余地もない。

貢献は、その反面、阻害でもある。

富める者が富める者としてある事の背後には
貧しいものの存在が不可欠なのだ。
富める者とは個人の力ではなく、
様々な依存の力が働いて生まれる事を知るべきだ。

様々な要因からなる単なる一時的な結果だけを見て、
個人の努力や能力の成果を主張する事は、
無智から生まれた幼稚で浅はかな考えである。

自己知識を得たものは全てを同等と観る。
特別な個人など存在しない。

自己知識とは自己存在への否定を通して知る知識である。
自己を特定の形態と見なす事で、
自己中心的な考えや行為を生むのである。

それにより競争を生み、様々な要因からなる格差が現れる。

特定の個を特別扱いして称賛すれば、個は調子に乗り、
どんどん肥え、相手にされなければ個は、力を
失い、どんどんやせ細っていく、
同等に観る事とは、全てを称賛し、あるいは
全てに無関心であり、また全てを憐れむ事である。

信じるものは救われる。

全てはくうであり、1つである。
それは何ものにも影響を与えず
影響を受ける事もない。

それが唯一の存在、わたしである。
全ては1つだが、1つのものに
分離を与えたのがマインドである。

根、幹、枝、葉、実
1つである木に分離を与えたのは知識であり、
マインドである。
木は木でさえない。

木は土から分離なく、土は世界から分離が無い。
世界は世界でさえない。

全ては1つで、わたしから切り離されたものは
何もない。
全てがわたしであり、
わたしはわたしでさえない。

主体と対象は、特定の形態を自己だとみなす
無智の状態へ向けられた教えであり、
事実は主体も対象もない。

陰と陽はマインドの領域にのみ存在する。

マインドとは雲のようなもので、
実態なく現れては消え去る。

マインドは分離を与え、分離した1つ1つに
定義を与える。
世界とはマインドそのものである。
ゆえに世界とはそれぞれの内に創造
されたそれぞれの印象に過ぎない。

時と共に変化し、現れては消える
マインドには確かなものはない。

マインドに現実性を与えれば、
マインドの奴隷となる。
マインドをあるがままに観て、
放っておくのだ。

やがてマインドは静かになるだろう。
その時、全ては1つだと気づくのだ。

ただ単に全ては1つだと言ってみたり、
思いなそうとしても、
1つでないと言う観念が残る限り、
分離はそこにある。
なによりそれが口先だけだと言う事
は知られている。

全てが1つである事の確信、
今ここに在るゼロを再認識する事、
それが真我(アートマン)実現と呼ばれるものだ。

帰依の道とは、全てが神であり、全てはそれと1つであると
完全に信じ、あの方を思い続ける事
我々に出来る事はそれだけだ。

更には我々が出来る事もまたあの方が決めて
くれていて、神と1つになる事に、我々は完全に無力である。

わたしが行為していると言う慢心が、
残っているなら、
神の元へ行く事は出来ないが、
それもまたあの方が残して下さっているのだ。

信じきり、完全に委ねる事で、
それは成される。

信じるものは救われるの真意は、
このようなものである。

世界が消え去る時、残ったものは
次の現れの種として、保持したまま
あの方の元へ行く、
あの方が宿るものに、
やり残したものは何も無い。

超自然原理であるあの方を、
神、ブラフマン、
何とでも呼ぶがいい。

真理は少数に宿る。

王は1人

世界、体、心はその変化を知る事の可能な
対象である。
あなたはこれらの変化を知る主体である。

知られる対象である体、心が王の
座につけば、真の存在、王は退き
失われる。

身体が王の座につけば、
他より良くありたい、
存在を誇示したいと言う欲望と
存在を失う事への恐れを生み、
欲望と恐れを基盤とした行為を生む。

行為は欲望と恐れの奴隷となり、
偽りの存在を誇示する事がその働きの主
だったものになる。

富、権力、力を得る事で存在を誇示する。
その手段として能力を高める事へ専念
するのだ。

存在を失ったがゆえの不安と恐れが、
存在への欲望を生み、
存在への無知が、誤った存在性を
勝ち取る事への病的な執着を生む。

だが偽りの存在、非存在が存在となる事は
決してない。
例え、存在感を得ても、それは一時的なもので
偽りの存在は満たされず、更に欲しがるようになる。
これらに果てはない。

稼いでも稼いでも、鍛えても鍛えても
どれだけ存在感を勝ち取ったとしても
満たされないのは、偽りの幸福、存在を
勝ち取ろうとしている事にある。

多くはこの状態にあり、この状態では、
全てのものが分離して見え、その中で
行為していると言う錯覚が付き纏う、

それは錯覚だと言う声は届かず。
そう言う声は狂言に聞こえるだろう。
突っ走る馬に念仏は届かない。

何度も何度も叩き上げられ、やがて苦しみが
現れる。
それにより熟考が始まる。
やがて、真の存在、王を知るようになり、
それに帰ろうとする働きは起こる。
今まで大切だと思い込んできたものがとても
小さく感じるようになるだろう。
そして真理を悟る事が最も尊いもの
だとも思えるだろう。

主体と対象への正しい理解は、
欲望と恐れからの解放を促し、
行為は、慈悲と愛が主導権を握り始めるだろう。

しかしまだ主体と対象と言う分離がある
限り完全ではない。
真の王はただ1つだ。

そこに分離はない。

今、在る

拒絶と受け入れ、
変動と不動、主体と対象、
これらは1つだ。
全ての極が交わる点

そこがわたしの住処である。

サードアイや中道、悟りとは、
特殊な能力の獲得を意味するものではなく、
全てが交わる点、あるいは全てを超えた点で
ある、常在の真理を指示した言わば方便だ。

それは今、ここに在る。

今に無く、後に訪れる能力の獲得への執着が、
今と言う真理を消し去る。
今に無いものは常在の真理とは呼べない。

神仏の名を使い、開運だの、引き寄せの力だの、
能力の開花だの、
根拠のあやふやな、今に無いものを
勝ち取る事を促す。

ブッダの説いた悟りについて、
多くのお坊様が、
心のあり方や行動について、
様々な道の指導者が、
今ここには無い、
獲得への道を教授する。

肩書や常識に捉われてはならない。

あり触れた多くが賛同する言葉、
それらに捉われる事で、
何よりも明らかな今を失い続ける。

例え心や行為を正そうと働きかけても、
今を知らないものが静寂である真を
知る事は決してない。
他を欺いても、己を欺く事は出来ない。
見せかけの不動は儚く崩れ去る。

内側を観ると、
欲望、恐れ、様々なマインドが
現れては消えていく、
今を離れる事で、心や行為の
奴隷となるだろう。

多くが持つ今と言う概念は、
真の静寂、今ではない。

勿論、今だけが在り、誰もが今に在る。
今とは、初めからそこにある真理そのものだ。
それは混じりけなく純粋なものであり、
目的なく意味なくそこにある。

それは絵を書く前の画用紙のようなものだ。
そこに創造されたものが色付けされると、
画用紙は色で覆い隠される。

意味なく目的無くそこにあるものに、
意味や目的が創造され、
それに捉われる事により、
その本質は覆い隠されてしまうのだ。

生きる目的とは生きる事である。
生に別の目的や意味はない。
にも拘らず人々は、生に意味を求め
生に別の目的を与えようとする。

夢や目標に向かう事に捉われるなら、
それらを実現する事が目的となり、
生は、それらを実現する為の手段となる。
それにより、それ自体が目的である生は
失われるのだ。

先を見据える事に際限はない。
目的を達成しても更に欲しがり、
目的を失ったものは生気を失う。
これらに捉われれば病的状態を生む、
それは生への無知から生まれるものだ。

生とは今を指すものであり、それは
存在そのものだ。
人々が生とみなすもの全ては生ではない。
それは非存在であり、
それは初めから死んでいる。

今を生きるとは、存在として留まる事だ。
全ての交わる点を見出し、
そこに立つことである。
それは、言葉で理解するものではない。

存在である彼は、
神を知り、真理を知り、幸福を知り、
全てを悟る。

彼だけが生きているのだ。

全てを悟るとは、物事のあり様の1つ1つを
知る事ではない。
それは物事は何も知る必要が無い事を悟るのだ。

真理の教えとは意味を消し去る為に、
物事に一時的な意味を与えたものだ。
今を発見したなら、全ては必要なくなるだろう。
森羅万象、神や仏、これらはただの言葉で、
実のところ何の意味もないのである。

既に明らかな今とはなにか?
それはこれであるとかそれであると
言えないものだ。
それは言葉を超え、マインドを超えた場所、
今に在る。

全ての原因、根源とは?

宇宙の原因の原因と果てしなく辿っていくと行きつく先は無である。

だが無とは何だろうか?
多くは、何も無い事だと言うだろう。

その時、殆どものが何も無いと言う
状態を指している事だろう。

そもそも無が何もないなら、原因の不在であり、そこからガスであろうがチリであろうが 爆発であろうが、生まれるはずはない。

何も無い状態は初めから素粒子の存在がある言う物理学者がいるが、それは無ではない。

何かの存在があるなら、更なる原因が生まれる。 何処まで辿っても根源が見つからないと言う問題に直面する。

科学は、難しい言葉を並べ立てるが、結局のところ結論を回避している 浅はかなものばかりである。

では、本当の意味で何も無いと言う状態とはどの様な状態だろうか?
暗黒だと言うなら、そこには暗黒が有る。

どれだけ無をイメージしても、何も無いと言う事は、
イメージできない、精々何も無いと言う空間が
イメージされるだけである。

だがそこに空間の存在があるなら、
何も無いと言う事ではない。

無を何も無いと言う状態だと言うなら、
それは何も無いと言う状態が有ると言う事になる。

何も無いと言う事で、何も無いと言う事でなくなる
と言うパラドックスに陥るのだ。

空間さえない無をイメージできるだろうか?
それは不可能である。

無が状態で無いと言う事は明らかだ。

何故なら状態とは、常に有を映し出すもので
あるからだ。
無は状態ではない。

それは有るとも無いとも言えない。
全ての状態を超えたもの、それが無である。

全ては無から始まった。
ゆえに今も無である。
そしてこれからも無である。

我々が見る全てが無の表現である。

状態とは、それは常に知覚の対象として
現れています。

対して知覚者、主体は、
目が目を見る事が出来ない様に、
自らを対象化出来ないと言う質をもつ

対象である全ての変化(状態)を知るもの
主体とは何だろうか?

誰が全ての変化を知るのだろうか?

わたし、自己である。
あなたは、世界の変化に気付いています。
勿論、体の変化、心の変化、感覚、意識の
変化さえ知る事が可能である。

状態は絶えず変化し、
それは、知る事の可能な対象であり、
知るものであるわたしではない。

知るものを知る事は出来ない。
知る事の可能なものは全て対象であり、
主である自己ではあり得ないのだ。

自己は状態ではないのだ。
無と同じように自己は状態を超えている。

状態を超えるとは、状態の中にではなく、
状態の外に在り、その影響を受けないと言う事だ。

無は自己と同じものである。

あらゆる状態を知覚している事で、
あらゆる状態から離れて在る事を示唆している。

そして、あらゆる状態を知覚する事で、
その存在性は明らかとなる。

しかし、それそのものの知覚は不可能と言う事で、
わたしは存在しないとも言える。

在るとも無いとも言えないもの
それがわたしである。

真理は、無である主体のみが在る。

だが、それのみではその表現が出来ない。
表現するには知覚の対象、状態が必要である。

陰と陽、
光が有る事で影があり、
影が有る事で光の存在を証明している。

全てのものは対立する2つの極がある事で
表現されるのだ。

無は、存在であり、無は在るのだ。

陰と陽は2つで1つのもの
それは現象としての現れを可能にするものである。

ここで言う無、自己、主体は、
全て同じものを指している。

では、無であり主であるものの対極、
有であり対象であるものは、
どこに生み出されるだろうか?

それを可能にするには1つを置いて他にはない。

夢と言う現象である。

主は、自らを対象化出来ない為に、存在であるにも
拘わらずそれを知覚する事はない。

そこに知覚の対象が無い限り、
それは常に眠りの中にある。

知覚の対象が無いと言う事は深い眠りを意味する。
深い眠りの中では対象である世界は存在しない。

陰と陽、全ては2つで1つ、
眠りがあるなら、目覚めがある。

目覚めは存在の眠りの中で起こる。
意識の開花である。

眠りの中において意識が目覚め、
世界と言う夢を創造するのである。

その中では全てが2つで1つのもので構成される
二元性の世界だ。

無は、有るとも無いとも言えない質をもつ、
もし1つの限定された真実があるなら、
それは有を現わし無が無で無くなるのだ。

無は限定された真実が無い事を意味している。
真実とは変化なく永遠である事を意味するものだ。

眠りが真実なら、何も無いと言う事が真実となり、
意識の目覚めはなかっただろう。

逆に意識の目覚めが真実なら、世界の消滅、
即ち、意識の消滅は無いだろう。

眠りと目覚めは交互に現れる事で、
どちらも真実でない無を表現しているのだ。

陰と陽はその現れである。

夢の世界は見ている時は真実だと言えるが、
消え去れば、無かった事に気付く、

有るとも無いとも言えないものが夢である。

意識の目覚めは眠りの中で起こる事であり、
この世界は目覚めの状態だとも言えるし、
眠りの状態だとも言える。

意識の消滅は、眠り、即ち夢見からの解放を意味し、
それは目覚めであるとも言え、再び知覚不可能な
自己としての眠りの状態だとも言える。

全てにおいて、どりらの表現も可能な
あやふやなものが無である。

夢見の世界を知覚するには、
見る事、聞く事、触る事、嗅ぐ事、味わう事、
即ち身体が必要である。

世界と体、全体と部分、これも2つで1つだ。
だがそれだけでは世界は認識されない。

見える世界があるなら、見えない世界、
そして見えない部分、
即ち精神世界だ。

物質的宇宙の反映は意識として、
物質的部分の反映は心、マインドとして現れる。
物質と精神は互いに影響を与え合う2つで1つのものだ。

そしてもう1つ、知る事が必要である。
見る事があっても、それを知覚する働きがなければ、
見ていると言う事は知られないままである。

知る事は、全ての2つで1つのもの、対象であり変化であり、
状態である世界、二元性を知覚する。

だから二元性を超える非二元のもの、
意識の中にありながら意識を超えているもの、
それは、完全なる無の反映として意識の中に現れた。

2つで1つのものの間には摩擦と言う
エネルギーを生む、
N極とS極の重なりが磁力を生むようなものだ。

不動である無と変動である世界の間に存在と言う
感覚が生まれる。

三位一体、
存在、人間とは二本の柱とその間のものと書く、
それは、身体のみを指すものでは無い。

全ては鎖のように繋がり現れる。
どれが欠けてもわたしはわたしを知覚する事は
出来ない。

ゆえに全てがわたしだ。

木は根、幹、枝、葉、実、全てが木である。
何処から根で、どこから幹で、枝なのか隔てる
境界線はない。

起こる事全てはわたしの体だ。

体は現れては消えていく、
意識の内容である物質的、精神的体は、
わたしそのものではない。

だから知覚されるもの全てがわたしではない。
わたしそのものは、
対象が消え去っても消える事はない。

全てはわたしだとも言えるが、
全てはわたしで無いとも言える。

それが無であるわたしである。

主体であり、無限、永遠、可能性である自己を
神と名付けた。
聖典などで神を主と表現しているのはこの為だ。

神は全てを知っていると言うだろう。
その真意は、わたしは全ての変化を知覚している
と言う意味だ。

神がわたしである。
無がわたしである。

しかし人々は、神を誤って対象として祭り上げて、
対象である個人的肉体を主体である自己だと思い込んだ。

人々は主体であり存在であるむについて無知であり、
変化し対象である非存在に存在性を与え、
それを現実と呼んでいる。

それも仕方がない。
何故なら無に真実はない。
主体は対象として感じられ、対象は主体として
感じられるものだ。

ゆえに主体は対象だとも主体だとも言え
対象は主体だとも対象だとも言えるからである。
それが無である。

もし主体と感じるものが主体として確立されたものであるなら、
それは1つの真実となり無は無で無くなるだろう。

存在するかに見えるものは存在が無く、
存在するかに見えないものが存在する。

無が在り、有が無い。

事実は(在)の中に無と有があり、
主体の中に主体と対象がある。

不動の中に不動と変動があり、
わたしの中に自と他がある。

不動であり、無である自己の内で、
変動であり意識である世界は出現と消滅を繰り返す。
陰と陽の関係性である。
全ては2で1つだ。

始まりは無と在、無とは1つの存在である。
次に存在と非存在、
存在があるなら非存在が有る。
無である存在の中に有である意識と世界、
精神と物質が現れる。

その中で全ての陰と陽が現れる。
物質と精神の世界は、意識とマインド、全体と個、
男女、右左、善悪、昼と夜、幸福と不幸、生と死、

意識内は二元性の世界だ。
対極の無に二元性はない。

知るものと知られる対象、
そしてそれを超えるもの
それが全てである。

原因と結果と言う二元性は意識の中でのみ
有効である。
人々は全ての原因を探ろうとするが、
それは何処まで行っても果てが無い。

果てが無いものに答えがあろうはずもない。
ゆえに答えは見つからない。
見つかったと思っても、
それは新たな見解に置き換えられる。

科学は見解を変えてきた。
それを進化と呼ぶ事は自由だが、変化する真実とは
何だろうか?

偽りである対象に真実を見出す事は出来ない。
内側を見なさい。

自己を発見しなさい。
そうすれば全てを発見するだろう。

そしてそれが、無であり、ゆえに現れる事も消え去る事もない全ての原因であり根源であるわたしである。

質問者も指導者も迷いの中だ。

豊かな事、貧しい事、
健康である事、病気である事、
頭の良い事、悪い事、
能力の高い事、無能な事、
強い事、弱い事、
富を得る事、失う事、
容姿が良い事、悪い事

進化、衰退

ストレス、緊張、恐れ、
好かれる事、嫌われる事、

知識の獲得、信仰する事、
政治、経済、
創造、維持、破壊、

人類の進化と崩壊、
生と死、
地球崩壊

地球外生命体、
死後の世界、
神や仏、宗教、科学

これらが何だと言うのだろうか?

質問者はこれらについて悩み、指導者はこれらについて答える。

多くの疑問はこれらについてであり、

多くの指導者はこれらについて回答を与える。

成功者と呼ばれるもの、寺の坊主でさえこれをやっている。

出来事に悩み、出来事に回答を与える事に問題はない。

しかし、出来事の中に自己が存在すると思いなすなら、

どちらも迷いの中だ。

迷いとは変化する対象、世界の中に自己があると言う錯覚から

生まれる。

どの様に結論付けようが、変化の中では原因と結果の法則の元、

結論もまた新たな原因となり、新たな疑問を生む、

出来事に特定の原因、回答、真実などない。

指導者は一時的結論に浸ってはいるが、それもまた失われるだろう。

賢者を装い賢くふるまっても、それは知るものにより見透かされている。

あなた方は何も得てはいない。

わたしにとって対象である世界は、空虚なものであり、

実に実りのないショウである。

出来事に悩み、出来事に回答を与える事は、

わたしから観れば、一時的な戯れに過ぎない。

わたしとは世界の中に、ではなく、それらを超えている。

ゆえに如何なる迷いも持つ事は出来ないのだ。

知るものとして在る

知るものと知られる対象、

神は全てを知っていると言うが、

全ての変化を誰が知るのだろうか?

もちろん、わたし、自己である。

にも拘わらず、多くは身体、思考、

知られる対象を自己であると結論付けている。

知られる対象である世界で、誰が苦しみ、誰が悲しむのだろうか?

苦しみも悲しみも知る事の可能な対象である。

それが自己だと結論付けるなら、苦しみも悲しみも

あなたのものだ。

しかし、事実は苦しみも悲しみもわたしにより知られている。

ゆえにわたしは苦しみからも悲しみからも離れている。

誰が何と言おうと、誰もが既に知るものとしての存在である事に

間違いはない。

常在である真理は常にここにある。

誰もが知るものとしてここに在る。

しかし、対象である身体がわたしであると言う錯覚があるなら、

それは取り除かれなければならない。

偽りにしがみつく事は偽りしか生まない。

偽りである錯覚が障害だ。

醜いアヒルの子は既に白鳥である。

わたしはアヒルの子であると言う錯覚だけが障害なのだ。

神とは?

人々は何をもって神としているのでしょうか?

その存在の有無を議論すること自体、
神への無知を示唆している。

神とは、存在する、しないと議論するものでは無く
それは、ここに在る何かを例えた方便である。

要は何を例えているかと言う事、
その事を殆どのものが知らないのだ。

世界中の一般人はおろか、仏に使えるとされるもの
キリスト教の信者、科学者、哲学者、ありと
あらゆる分野で、神の誤った解釈がなされている。

これだけ知識のあふれた世界でこんなに明らかなものを
見落としている。

神は存在します。

神仏が何か分からずに、想像上のものについて
話すから、その存在の有無と言う議論になるわけです。

では神を何として、それは何処にいるでしょうか?

神は全てを見ている。

全てを見ているものとは何でしょうか?

この「見ている」事「見る」事は、
主観でなければなりません。
「見られている」と言う客観的なものは全て推測でしかありません。

例えば、あなたが偽りの理由をもって上司に仕事を休むと
言ったとします。

ここで上司は騙された人として、
その時あなたは騙した人となります。

騙された人と騙した人、そしてその嘘は
知られています。

知るものからすれば、騙されるもの騙すもの
そしてその嘘は、
知る事の可能な対象であり、それらを知るものである主体であると
は言えません。

知るものからすれば、知る事の可能なものは全て対象であると位置づけられます。

さて、その嘘を知るものとは何でしょうか?

その嘘を知るものとはあなた以外にあり得ません。

あなたは、勿論騙された人ではありません。
そして騙した人でさえありません。
では、騙した人とは何でしょうか?

それは、騙されたものと同様に対象であり、あなたではないと言えます。

目が目を見る事が出来ない様に、知るものを知る事は出来ません。
主体とは自らを対象化出来ないと言う質を持つからです。
知る事が可能なものは全てあなたではない事を証明します。

私の車、私の家と言います。
言い方を変えれば、私は車でもなければ家でもないと
表現できます。
ならば私の体、私の心はどうでしょうか?
言葉の上では、
私は体でもなければ、心でもないと言う事に
なります。

実際にはどうでしょうか?

あなたの体や心はあなたであると言えるでしょうか?

いや、それを自己だと決めつける理由は不十分なもので
定かであるとは言えません。

身体や心とは、繋がりにおいてのみ機能するもので、
誰であるとは言えません。

繋がりから機能するものであるからこそ、
人は繋がりの束縛を受けます。
やりたくない事、思いたくない事をやり思わなければ
ならない時があると言う事は、繋がりからなる
束縛だと言えます。

私の体、私の心、私の何々を全て捨て去り、
残る純粋な私とは何だろうか?

それはあなたがあなただと思いなす全てを超えた、
全ての根底に在る普遍なるものを指しています。

そしてそれが真のあなたであると言えます。

もしあなたが知られる対象である。
騙す人をあなただと思いなし、
そこに罪悪感があるとするなら、
騙したことによる罪悪感と言う罰をもろに受けるでしょう。

もしあなたが、知るものであるなら、
罪悪感もまた知られる対象となり、その罰から逃れます。

対象である体、個人を自己だと思いなす罪は、
個人が受ける全ての罰(束縛)を背負う事になります。

もし神である主体を知り、それが自己だと悟るなら
全ての束縛から解放されるでしょう。

理解だけでは不十分だ。
真の自己を悟り、解放が成されて、
全てが成仏するのだ。
その為に神仏の教えがあるのです。

その中に宇宙全体のあり様、全ての物質的
精神的あり様が含まれているのですが、

それらは単に、わたしとは何か?
を説明する目的で創造されたものに過ぎず、
その目的であるわたしとは究極的に
何であるかを知るなら、
それらは必要のないものとして捨て去られるのです。

真実とは変化のない常在を意味します。
あなたと共に常在するもの、
それはあなた以外には無いのです。
神が真実なるものだとするなら、
それはあなた以外にはないのです。

真のあなた、わたしを見出しなさい。